Neva Eva

small happiness
 今日も今日とて、ウチの弟は元気に転び回っている。

 『走り回る』ではなく、『転び回る』。それで間違っていない。
 世間的にはどうかと思うが、ウチの弟相手では逆にその表現が嵌まり過ぎてて笑えない。日常生活に死の危険性があるというのは、何度考えてみてもどうかと思う。……事実でしかない辺りが本気でどうだろうか。

 昨日だってそうだ。
 転んだ挙句、この寒い最中池に嵌まるなどという芸当をしでかした弟は、本当に笑えないどころの話ではない。
 ……というか、躓いてそのままころころと池へと転がっていた弟の襟首を、慌てて掴んだ俺も弟とまったく同じ道を辿ってしまったのは不覚としか言い様がない。つまり、二人揃って池へと落ちた。

 そして、本日。
 当然の結果とも言えるが、俺は体調を崩して熱を出した。

 対して、弟 ―――― ラズリィは今日も元気いっぱいの様相である。


 ………………何となく釈然としないものを覚えるのは俺だけだろうか……。









 ぺたり、と小さな手が額を撫でていく。子供特有の高い体温でさえ、今の自分には心地良い。

「りとにぃ、あつい!」

 ぺたり、と逆側の手も俺の額へと乗せたラズリィが吃驚したような声で言った。

「……熱があるからな」
「おねつあるの? あっつい?」
「ああ……」
「しんじゃうの!?」
「待て。勝手に殺すな」

 ぜぇ、と苦しい息の下でそう抗議すれば、弟は額に手を乗せたまま、ちょこんと首を傾げてみせた。

「……しんじゃいそう?」
「……」

 そこで状況を正確に言い直されても。

 というか、何でお前はそんなに元気なんだ。真冬に池に落ちてピンピンしているのは、羨ましいというよりもいっそ憎い。
 ……これぐらい頑丈でないと、弟が日常生活を送れないというのも判ってはいるのだが。

「兄様? 起きて……、あら? ラズもここにいたのね」

 軽いノックの音と共に、室内に妹が顔を出した。

「お薬持って来たのだけれど、飲める?」
「ああ……」

 軽く頷きながらゆっくりと身を起こした。いつもなら何の問題もなく出来るはずのその動作も、今はひとつひとつが重労働である。普段の弟の歩行よりも、今の自分の動きの方が危なっかしいと思えてしまうのだから相当だ。
 ぎこちない俺の動きに少しだけ眉を寄せたティセリアーナが、すっとその白い手を伸ばしてきた。当たり前のことだが、その手はラズのものよりもかなり体温が低くてひんやりと心地良い。

「熱がまだ随分高いわねぇ。大丈夫?」
「……死ぬほどでもない」
「あらあら」

 俺の返答にくすくすと笑い声を漏らして、ティセリアーナはゆっくりとその手をどけた。隣でベッドのシーツを握りしめつつこちらを見上げていたラズの頭を、そのままゆるやかにひとつ撫でる。

「でも、その調子じゃさすがに街に行くのは無理そうねぇ」

 思案顔で言われたその台詞には、もはや頷くしかない。
 今日は久しぶりに家族全員で街の方に出てみようという話をしていたのだが、自分の体調を鑑みるにどう考えてもそれは無理だ。この状況で外出するというのは、どんな自殺行為なのかと。

「お前たちだけで行ってくればいい」

 父と外出するのは本当に久しぶりだろう? と言えば、ティセリアーナはそうなんだけど……と眉を寄せ、ラズリィはきょとんとりとにぃは? と訊いてきた。その頭を苦笑しながら緩く撫でる。

「留守番してるさ」
「りとにぃ、ひとり?」
「ああ、大人しく寝てることにする」
「……しんじゃわない?」
「だから勝手に殺すなと」

 どうしてお前の思考はそう死亡コースに一直線なんだ。
 ……いや、お前の生き様が正しくそんな感じだというのは理解しているつもりなんだが。

「だって、りとにぃあつい」
「寝てれば治る」
「しんじゃいそう」
「……一人でも死なないから、行っておいで」

 どうしてそこで会話がループする。
 怒るよりも脱力して、もう一度弟の頭を撫でた。軽く眉を寄せていたティセリアーナは、諦めたように小さく息を吐いて、じゃあ行ってくるけど……と口を開いた。

 出来るだけ早く帰ってくるわね、と言った妹に、気にするな、と言葉を返す。代わりに弟の行動を気にしておいてくれないだろうか、と思いながら家族の背中を送り出したのが、おそらく数時間前の話で。


 キィ……と僅かに軋むような音がして、目が覚めた。

「……?」

 どうやらいつの間にか眠っていたらしい。窓から差し込む陽の光が、記憶にあるものよりも随分と傾いている。身体を支配するだるさは変わらないが、それでも眠る前よりは幾らか気分が良くなっていた。
 薬が効いたのか、と思ったところで、またギシリ……と何かが僅かに軋んだ音がする。そういえばさっきも似たような音がしていたな、と思い出しながら首を巡らせた先 ―――― そろり、そろりと動く薄茶の頭を見付けた。高さ的には、ベッドに横になっている俺の目線の辺り。
 言わずもがなで弟、ラズリィだ。

 目を覚ました俺にまったく気付いた様子もなく、弟は胸元に何かを大事そうに抱えてそろり、そろり、とベッドへと近付いてくる。「そーっと、そーっと……」なんて、呪文みたいに小声で呟いているのがおかしくて、危うく吹き出しそうになった。
 いや、しかし。

「そーっと、そー……う、にょっ!?」

 ベッドまであと少し、というところで、不思議な悲鳴が上がった。……ああ、まぁ、アレだ。やるとは思った。

 胸元の何かを気にするあまり、足元への注意が疎かになっていたらしい。自分で自分の足に引っ掛かるというある意味器用なことをしてのけた弟は、そのまま眼前にあるベッドに顔面からダイブした。
 位置が良かったのだろう、怪我もなさそうな様子であうー、と呻く弟とちょうど真正面から目が合う。ぱちり、と大きな赤い瞳を瞬かせた弟は、直後ぱっと顔を輝かせた。

「りとにぃ、ただいま!」

 ぼふり、と小さな手が勢い良くシーツを掴んだ瞬間、がつん、という鈍い打撃音。

 ……がつん?

「ふぇ? ……にょああああぁっ!?」

 そして上がる不思議な悲鳴。

「おとしたっ!」
「……何を?」
「われちゃった!?」
「……何が?」

 ひとり大騒ぎする弟は、俺の言葉などほとんど耳に入っていない様子で、慌てて床へとしゃがみ込んだ。……何なんだ。
 訳が判らない、と脳内に疑問符を浮かべたところで、しゃがんでいた弟ががばっ! と立ち上がった。手に小さな瓶を握りしめて、満面の笑みでひと言。

「ぶじだった!」

 ……それは何より。

 にこにことした笑顔の弟が手にしていたのは、透明な硝子の小瓶。
 中に入っていたのは、色とりどりの……、

「……金平糖?」

 覚えのある菓子の名前を呟けば、もう一度ぼふり、とベッド脇にダイブしてきた弟が、そう! とぱあっと笑顔になる。

「りとにぃに、おみゃーげ!」

 おみゃーげ?
 ……ああ、お土産、か。

「ラズリィ、おみゃーげじゃない。おみやげ、だ」
「う?」

 俺の言葉に弟はこてんと首を傾げ、けれどすぐににっこおっとした笑顔になって、うんと頷いた。

「おみゃーげ!」
「…………」

 言えてない。

 にっこにこと、いっそ誇らしげに告げる弟は、まだ三歳になったばかり。舌足らずなのは仕方がないか、と諦めることにして、ありがとうと礼を言いながらにこにこ笑顔の弟の頭を撫でる。

「街は楽しかったか?」

 それは、何の気なしに口にした問い掛けだった。
 弟が街へと出掛けるのを楽しみにしていたのは知っているし、こうやって満面の笑みで帰って来たのだから楽しかったのだろう、と。半ば答えの判りきったことを訊いたつもりだった俺に返されたのは、半分正解で、半分不正解と取れる弟の答えだった。

「たのしかったけど、つまんなかった」

 ……ちょっとお前は正しい言葉を学んできなさい。
 いや、違う。学んでこいというよりは、俺達が教え込まないとならないのか。

「……楽しくなかったのか?」
「まちは、たのしかった! ひとがいっぱいで、おもしろいものいっぱい!」

 嘘も偽りもない笑顔で弟が言う。つられて思わずこちらまで笑顔になるような、そんな表情だ。楽しかった、というそれは、おそらく間違いのない真実だろう。
 それなら、つまらなかった、というのは……?

「まちはたのしかったけど、りとにぃいなかったからつまんなかったの」

 その答えは、ひどく真っ直ぐに。
 照れもてらいもなく告げられたそれに、一瞬自分の動きが止まる。

 えぇと、それはつまり……。

 …………何気なく今、結構すごいことを言われなかっただろうか。

「そう、か……」
「うん」
「それは、悪かった」
「ううん。げんきになったら、いっしょにいこうね」

 シーツにぼふりと寄りかかったままの体勢で、にっこりと笑った弟に。
 くすぐったいような、あたたかいような。そんな気持ちを抱えて、俺はその薄茶の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

 その後、同じように部屋にやって来た妹が、くすくすと笑いながら「これは私からのお土産ね」と言いながら綺麗な硝子細工の猫をくれた。……いや、お前、これを俺にどうしろと。

 とりあえず、色鮮やかな金平糖の瓶と薄い水色の硝子の猫は、俺の部屋の机の上に仲良く一緒に並べられている。

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