Neva Eva

過去も未来も現在も
 あの日感じたものを、言葉にしろと言われると難しい。


 けれど、確かに。

 あの日から、芽生えたものは、あるのだと思う。






 精霊というのは、ある日突然生まれる。
 何の前触れもなく、自然から意志を持つものが発生する。それが精霊の始まりだ。生まれてすぐは、意志もはっきりせずぼんやりしていることも多いが、会話が出来ないほどでもない。
 そうやって、ある日突然に精霊は生まれ、自己を確立し、やがて寿命を迎えてゆるやかに消滅する。精霊も不老不死という訳でもない。成長もすれば、老いもする。ただそのスピードが、人間に比べると果てしもなくゆるやかなので、人からしてみれば不老不死とそう変わりないようにも見えるが。

 自分の生まれた日というものを、そんなに鮮明に覚えているわけでもない。
 ただ、客観的な事実として『力ある精霊』が生まれるその瞬間というのは、何かしら影響があるらしい。普通の精霊が生まれる分には問題はない。が、ある程度以上の力を持った精霊が生まれる瞬間には、何らかの影響が出る。影響がどんな形で出るのかは判然としないが、少なくとも無視するのは難しいレベルで自然の力が動く。俺が生まれた時も、そうだったらしい。さすがにその辺りの記憶はないのだが。

 だから。
 最初は、これもそうなのではないかと思った。

 唐突に感じた、力の爆発。
 それは、異常と言っても良かった。それ程に途方もない力が弾けたのが、空気の震えと共に伝わってきた。

「北……いや、少し東、か?」

 力を感じた方角の空を振り仰ぐ。
 瞬間的に感じた力の爆発は、今はもうその残滓すら感じ取れなくなっていた。それもまた、奇妙なことだったが。
 僅かに眉を寄せて立ち上がる。もう一度、先程と同じ方角の空を見やった。

「……ルッツカーナの方か」

 自分の感覚だけを頼りに、力の発生源の距離をざっと測る。思ったよりも遠いその場所に、また内心で僅かに眉を顰めた。
 ひとつ、息を吐き出す。ここで結論を出すには情報も何もかもが足りない。

「行ってみるか……」

 実際に足を運ぶことに、何か意味がある訳でもない。だが、気になることは確かだったし、幸い時間は有り余る程にある。
 そう迷うこともなく判断を下すと、俺はその場から姿を消した。



 瞳を閉じて、再び開ける。
 その一瞬の間に、周囲の景色は一変していた。

 精霊にとって、距離はあまり障害にはならない。自分が存在していられる場所であればどこへでも一瞬で行ける。
 力を感じた方角を思い描いて、大体の場所へと飛んで来たわけだが、特に問題のありそうな気配は感じ取れず、さてどうしたものか……と軽く周囲へと巡らせた視線の先に、見覚えのある背中を見付けた。一瞬驚いたが、すぐにそう不思議なことでもないかと思い直す。おそらく、奴も先程の力の元を確かめにここへ来たのだろう。

「―――― 闇の」

 呼び掛ける。
 真名は知ってはいるが、口には出来ない。そういう関係でもない。相手方にとっても、それは同じだろう。

 闇を統べる王 ―――― セレナイト。

 自分とは対極を成す力を持つ、闇の王。
 闇そのものを思わせるような漆黒の髪を揺らして、闇の王はくるりと空中で向きを変えた。俺を捉えた瞳が、僅かに瞠られる。

「あれぇ? 何だか久しぶりだねぇ?」

 気の抜けるような口調で喋って、そいつはへらりとした笑みを浮かべた。記憶にあるそのままの笑みだと、そんなどうでもいいことを思う。

「あぁ、およそ七十年ぶり、といったところか」
「うわ、もうそんなに経つんだー。うーん、どうも時間感覚が鈍くなっていけないなー」

 精霊って、特に何かやることがあるわけでもないからねー、とある意味眷属のものが聞いたら卒倒しそうなことを呟いて、そいつは軽く首を振った。一応王と名の付く奴が言っていい台詞でもないが、言っていること自体は同意を示してもいいと思う。

 闇と、光。
 自分が望んだわけでもないが、その頂点を示す名を持つ俺と奴は、対極を成すその力とは逆に、どうしてだか思考的には近いものがあった。一見してそうと判る訳でもないが、それでも言葉の端々にそう感じるものがある。確かめたことはないし確かめる気もないが、おそらく間違ってはいないだろう。
 だからこそだとは思うが、反発しても不思議ではない属性相手であるのに、そう仲は悪くない。飛びぬけて仲が良い訳でもないが、険悪になることもない。こうして会えば普通に話もする。

「君が来た、ってことは、いよいよ何かキナ臭いなぁ……」
「別に俺のせいではないだろう」
「いやいや、ねぇ? それでなくてもワケ判んないこの光景にどうしよっかなー? とか思ってるのに」
「訳が判らない?」

 訝しげに眉を寄せた俺に、闇の王はひょいと肩を竦めてみせると、つい先程まで視線を向けていた方向をちょいと指差した。何だ? と思いそのまま指差す先を追った俺は、滅多にないことだが呆気に取られた。
 それはもう、心底。咄嗟に、何の反応も出来ないぐらいに。

「…………何だ、あれは……」
「見たままでいいなら ―――― 向日葵だねぇ」
「……明らかにおかしいだろう」
「そうだねぇ。主にサイズ的にありえないよねぇ」

 あっはっは、と軽く闇の王は笑った。はっきり言って、笑い事ではない。
 前方、記憶が確かならば、見渡す限りの荒野だったはずの場所に、何故だか緑が広がっている。そして何故だか視界に入る巨大な向日葵。……何だ、あれは。大きさ的にありえないだろう。
 広がる緑 ―――― 木々よりも余程立派に成長を遂げているのは、どう見ても形状は向日葵だった。……だからあれは何なんだ。

「多分ね、アレがさっきの力が成したものだとは思うんだけど」

 君も感じたんでしょー? と訊かれ、確かにその通りだったので頷く。が。

「……訳が判らんな」
「それは同感。最初は何か『力ある精霊』が生まれたのかと思って、様子見に来たんだけどねー」
「俺もそうだ。が、これは……」
「うん、多分違うね。精霊じゃなさそう」

 あっさりとそう言って、闇の王はまた肩を竦めた。

 目の前にあるもの ―――― それに対して、根本的な理解はできそうにもないが、それでも幾らか判ったこともある。実際に目の当たりにして、判ったこと。
 精霊が生まれたのだと仮定して、それならば普通はひとつの力しか感じ取れないはずだ。生まれた精霊の、属性となる力。
 が、目の前にある緑から感じ取れる力は、『風』と『水』。同時に二体の精霊が生まれたのだということも考えられなくはないが、それは可能性としてはとても低い。加えて、それならば生まれた精霊の気配を感じ取れてもいいはずだ。しかし、今はそれもない。

「どういうことだと思うー?」
「……さぁな。判らん」

 力は、確かに感じた。遠くの地にいても判るほどの、力の爆発。それは異常と言ってもよかった。
 その力の爆発が齎した結果は、どう贔屓目に見ても普通ではないのに、残された力の流れはひどく自然なものだった。
 逆らわず、溶け込むように。そんな風に使われた力。…………それがどうしてあんな結果なのかは理解に苦しむが。絶対にありえないだろう、あの向日葵は。

 遠目にも判る、異常な大きさの向日葵を面白そうに眺めやって、それからちらりと俺の方へと視線を投げた闇の王は、「ま、いいや」と呟いて軽く伸びをしてみせた。

「ちょっと興味湧いたから、あれをやったのが誰なのか、少し探ってみることにするよ。どうせここのところ暇だったしね」

 そう言ってくるりと踵を返した闇の王は、肩越しにこちらを振り返った。

「君はどうするの?」

 問われて、少し考える。
 気にならないと言えば、嘘になる。あの時感じた、力の爆発。今、目の前にある光景。そのすべてが異常で、しかし感じ取れる力の流れだけが自然だった。

「……俺も、追ってみることにしよう」

 興味は、確かにあった。それに闇の王の言ではないが、時間は腐るほどにある。
 答えた俺に、闇の王は「ふぅん」と面白そうに呟いた。

「珍しいねぇ。君がそういう行動に出るのも」

 へらり、とまた笑ってみせて、闇の王はひらりと手を振った。

「ま、そういうことなら、また会うこともあるかもしれないねー。何せ追ってるものは同じワケだし」

 楽しそうに笑って、闇の王は今度こそ踵を返す。こちらへと背を向けたまま、「それじゃ、またねー」と言われたので、「あぁ」とだけ返しておいた。
 一歩前に踏み出したところで、すぐにその背中が空気に溶けるようにして消える。それを何とはなしに見送って、俺もその場を後にすることにした。













「…………」
「……ありゃ」

 こちらを認めた闇色の瞳が、ぱちりと瞬いた。

「宣言通り、また会ったねぇ」
「そのようだな」

 ため息を、ひとつ。どうやら、本当に闇の王の言う通りになったらしい。

「えーっと、約一ヶ月ぶりってとこ?」
「あぁ」
「うわ、こんな短期間に君の顔を続けて見るのは初めてのことだねぇ」

 いつもは十年単位の周期だったし、という声に、確かにな、と頷きを返す。

「で? あれから何か手掛かりは掴めた?」

 続けての問いには、首を横に。それを見て、闇の王はこっちも似たようなものー、とへらりとした笑みを浮かべた。
 先程から、会話の内容から主語の類が綺麗に抜け落ちていたが、それでも問題なく話は通じる。滅多に会うこともない輩に続けざまに遭遇した理由を考えれば、それもまた不思議なことではないが。

「ところで、君、何でここに来たの?」

 何故、と問われて、少し考える。

「……さて、な」

 答えらしき答えは、己の中に存在していなかった。
 ただ……、

「強いて言うなら、何かに呼ばれたような ―――― 引っ張られたような感じを覚えたというか……」

 つまりは、そういうことだ。
 今日は朝からそんな感覚に付きまとわれ、気のせいだと思うのも面倒になってきたため、素直にその感覚が命じるがままにここまでやって来たのだ。

 馬鹿にされるか、呆れられるかしても仕方のない答えだったが、意外なことに闇の王はそのどれもをしなかった。からかうような発言すらも投げてこない。変わりに「うっわぁ……」と呟いて、何とも言えない微妙な表情になっていたが。……お前、それはどういう反応だ?

「それだよ、それ。正にそれー」
「……何なんだ、一体」
「何って、俺がここに来た理由の話ー」

 まさしくそんな感じなんだよねー、と緊張感なく闇の王は言ってひょいと肩を竦めた。何なんだろうねー? とこちらに問い掛けつつ首を傾げているが、そんなものはこちらの方が訊きたい。

 訳が判らない感覚は、まだ続いている。はっきりとしない、掴みどころのない感覚。
 持て余すようなその感覚は、焦燥にも似ていた。

 ―――― と。
 不意に、気になる気配を感じ取って、眉を寄せた。
 別段、悪いものではない。……悪くはないが、状況に適さない。

「……あれ?」

 ほぼ同時に、闇の王も同じものに気付いたらしい。俺と同じ方向へと視線を向けると、興味深そうに瞳を細めた。

 視線の先にいたのは、小さな子供だった。普通の、人間の子供に見える。おそらくは、まだ生まれて数年といったところだろう。歩き方もどこか危なっかしく今にも転びそうだ。

「珍しい。こんなところに子供がいるなんて」
「……珍しいというより、むしろ不審ではないか?」

 へぇ……、と暢気に呟いた闇の王に、とりあえずそう言葉を返す。
 こんなところ ―― 見渡す限り、視界には鬱蒼とした木々しか見えない。要するに、森の中だ。街からそう離れているわけでもないが、近いというわけでもない。
 ざっと周囲を見回してみるが、子供の他には人影は見えなかった。森の奥深い場所で子供がひとり、きょろきょろと周囲を見回しながら歩いている。明らかに、不審以外の何ものでもない。

「迷子、かなぁ……?」
「こんな場所でか?」
「思い切りのいい迷子だよねぇ」
「……そういう問題か?」

 あくまでも暢気に闇の王は笑っている。元々、奴は人間に対する関心というものが薄い。子供が迷子だろうが何だろうが、基本的にどうでもいいのだろう。
 ついっと子供から視線を外して俺を見た闇の王が、ぱちりを瞬きをした後でくすくすと笑い出した。何だ? と内心で首を傾げる俺の前で、闇の王はちょいちょいと自分の眉間の辺りを指差してみせる。

「ちょっとー、眉間すっごいシワ寄ってるよ? 視線で人殺せそうだよー?」
「……余計な世話だ」
「はーいはい。そりゃね、別に君がどんなカオしてようが俺には関係ないけどねー? 何でいきなりそんな不機嫌顔?」
「……子供は、苦手だ」
「ああ。君、泣かれるもんね」
「…………」

 ばっさりと闇の王が言い切った。
 ……事実だが。遠慮なく事実のみをピンポイント強打だが。

 精霊という存在をはっきりと認知出来る人間は、そう多くはないが皆無というわけでもない。魔法使いなどは、はっきりと視認はできなくとも、何となくの気配を感じ取ることに長けている。逆に、魔法使いでなくとも精霊の存在を感じ取ることが出来る人間は確かにいる。
 勘の鋭いもの、感受性の強いもの ―――― 主に、幼い子供に見られる傾向で、それ故に己の姿を認めることの出来る稀な子供には、大抵泣かれる。十中八九、泣かれる。精霊相手でさえ怯えられる。だから、苦手だ。

 俺の無言をどう取ったのか、闇の王はくすくすと笑い続けている。

「まぁねぇ……君の場合、その無表情ぶりも悪いんじゃないの? ―――― って、あ」

 ふと、闇の王が俺から視線を外した。見れば、張り出した木の根にでも足を取られたのだろう、子供は見事なまでにべしゃりと転んで潰れていた。……あれは痛い。

「あらら……これはまた」
「派手に転んだな」

 意外なことに、子供は泣かなかった。ううう……と少し涙目になっていたもののゆっくりと起き上がり、慣れた様子でぱんぱんと自分の服を叩いて汚れを落としている。
 よくよく見れば、子供は既に怪我だらけだった。深刻なものはないようだが、むき出しの手足にはすり傷だの切り傷だの引っ掻き傷だのが無数に刻まれている。着ているものも泥だらけだ。

「……あのままだと、まずいんじゃないか?」
「そうだねぇ……。何か方向的にどんどん森の奥の方に突き進んでるし」
「……やはり迷子か」
「じゃないの? その割には、本人に躊躇いも悲壮感もないけどー」
「…………」

 確かにそうだ。普通、迷子の子供などもっと不安そうな表情をしているものだが、眼下にいるこの子供にはそういった雰囲気は皆無だ。
 自分自身、別に積極的に人間に関わろうなんて気がある訳でもないが、それでも見てしまった以上このまま子供を放っておくのも何だか後味が悪い。さてどうしたものか、と考えた俺の思考を読んだかのようなタイミングで、闇の王が口を開いた。

「君があの子に関わるっていうんなら別に止めないけどねー? どっちにしろ今のまんまじゃ無理でしょー」

 言いながら、ひょいと肩を竦める。

「普通の人間には、精霊の存在自体感知できないし。実体化してからでない、と……」

 言葉が、不意に途切れた。視線は、既に俺から外されている。

「? どうかしたの、か……」

 問おうとした俺の声も、同じように途中で途切れた。

 ―――― 赤い瞳と目が合った。

 あろうことか、真正面から。
 一瞬、完全に虚を突かれた。

「…………おい」
「うーん、これは……」

 一瞬の衝撃から立ち直り傍らの存在に声を掛ければ、何とも言い難い声音で闇の王が応えた。そのままひらひらと子供に向けて手を振っているその様子は、何となく間が抜けている。
 ひらひらと手を振られた子供の方はというと、瞬間的にぱっと顔を輝かせてぶんぶんと手を振り返してきた。
 間違いなく、これは……、

「見えてるねぇ……」
「見えているな……」

 しっかりとこちらを捉えてにこにことした笑みを浮かべる子供。はっきり言って、想定外だと言っていい。

「……どうする?」
「えー、どうするって言われてもねぇ……って、あ」

 視線の先で、こちらへと歩み寄ろうとしていた子供がまた転んだ。……気のせいでなければ、今度は何もないところで器用に転んでいる。ため息を吐いて子供の傍らへとふわりと着地すれば、肩を竦めた闇の王がそれに続いた。

「…………大丈夫か?」

 少し躊躇ってから、声を掛ける。その声に反応して、子供ががばりと顔を上げた。赤い大きな瞳が真っ直ぐにこちらを向いて、すぐに笑みの形に細められた。

「だいじょうぶ!」

 ……この状況でにっこりと笑う子供というのも、かなり珍しい。しかも到底大丈夫には見えない。

「というか、完全に声まで聴こえてるねぇ、これは」
「……あぁ」
「うわぁ、何か珍しいもの目の前にしてる気がするー」

 闇の王がそう言うのも無理はない。普通の人間には、精霊の存在なんて感じ取ることも出来ない。勘の鋭いものが、その気配に若干気付く程度。魔法使いであっても、この子供のように実体化もしていない精霊をはっきりと捉え、尚且つ声まで聴くことのできる者がどれだけいることか。その絶対数の少なさは、推して知るべしだ。しかも、四大元素の精霊とは違い、光と闇の精霊は気配すらも捉え難い。

 俺たちの会話を、きょとんと首を傾げながら聞いている子供。意味を、理解はしていないと思う。しかし、確実に音として、声として、それを認識しているのだと判る。
 こてん、と大きく首を傾げた子供は、そのままの体勢で口を開いた。

「う? おにーちゃんたちは、せいれいさん?」

 自分で訊きながら、更に首を傾げる。……何だか引っくり返りそうだ、と思った瞬間には、本当に引っくり返っていた。
 引っくり返った弾みでぶつけてしまった頭を、あうううう……と呻きながら小さな手で擦っている子供をどこか面白そうに眺めた闇の王が、ひょいと子供の傍にしゃがみ込んだ。

「あははー、すごいね。判るんだ? そう、俺たちは精霊だよー?」

 闇の王の言葉に、子供は顔を上げてまた「……う?」と首を傾げる。……おい、その角度はまた転がるぞ。

「せいれいさん……。でも、ほかのみんなとは、ちょっとちがう……?」

 なんでだろう? と呟いて、その子供は更に首を傾げた。当然、転がった。
 闇の精霊が、しゃがみ込んだままの体勢でこちらを振り仰ぐ。向けられた闇色の瞳の中に、僅かばかりの困惑が感じ取れた。
 今度はたいしてダメージもなかった様子で、よいしょ、と身体を起こした子供は再び俺たちを見上げた。そして呟く。「やっぱりちがう」と。

「……何が、違うの?」
「うーんと……、よくわかんない。でもなにかちがう。みんなとは、ちょっとちがう」
「“みんな”……?」

 気になる単語を拾い上げて問えば、子供はぱっと笑顔になった。

「うん! あのね、いろいろおしえてくれるの! いろんなとこにいて、いろんなことおしえてくれる。まほう? のつかいかたとか」
「………………ちょっと待て」

 それは本当に待て。子供の前で、闇の王も微妙な表情になっている。

「…………魔法、使えるの?」
「うん! おしえてくれるから!」
「いやいやいやいや、ちょっと待とう?」

 えー、あれ、ちょっとー? と闇の王が困惑気味な声を漏らした。その気持ちは、痛いぐらいに良く判る。嘘を言っているわけでもなさそうだと、そんなことが変に確信できてしまうものだから、余計に。

「え、ちょっと本気でどうしよう、これ」
「……俺に訊かれても」

 確かに、目の前のこの子供に対してどう反応していいものだか判断に困るが、それを俺に訊かれても困る。
 困ったように笑う闇の王と、困惑から眉間に皺を寄せて難しい表情になっている俺の前で、子供は相変わらずにこにこと笑っている。何が楽しいのかはまるで理解できないが、途轍もなく楽しそうだ。闇の王が感心したように言った。

「とりあえず、すごいね。今の状態の君を目の前にして、泣き出さない子は初めて見た」
「…………」
「うーん、それなりに君とも付き合い長いけど、ホントに初めてだよねぇ」
「…………」

 反論したいのは山々だが、少し……いや、かなり自分でもそう思う。反論の余地もない。

 子供は笑う。にこにこと。邪気なく、素直に ―――― 楽しそうに。
 笑って、そのままの表情で爆弾を落としていった。


「くろと、しろ? みたことないいろ。おひるとよるのいろだね」


 その時の気持ちを、何と表現すればいいのだろう。

 衝撃は、あった。驚愕も、あった。
 けれど、それと一緒に覚えたのは、もっと別の何か。

 強く、強く。刻み付けるように、自分の中に何かを残していった。それの意味するものを計りかねて、ただただ沈黙を強いられる。
 何のことはない、咄嗟に言葉が出てこなかったのだ。

 にこにこと、子供は言葉を紡ぐ。

「みんな、いろがあるの。さいしょにあったおにーちゃんとおねーちゃんは、あおいろときいろだった」

 青色と、黄色。
 その概念が示すのは、おそらく水の精霊と風の精霊だろう。感覚としては理解出来る。出来るのだが……、

「……理解不能だな」
「右に同じくー」

 根本的なところで、理解不能。

 普通の人間に、そんなことは出来ない。おそらくは、熟練の魔法使いにも無理だろう。精霊を視認することはおろか声まで聴き、あまつさえその属性を色で感じ取る人間など他にいない。
 そんな非常識な人間など、他にいてたまるかと思うのに。

「……?」

 ふと、何かが引っ掛かった。
 それは、本当に、小さな何か。思考の片隅に、引っ掛かったもの。

 疑問を覚えたのはほんの一瞬で、すぐにその引っ掛かったものの正体を知った。
 似ていたのだ。今まで気が付かなかったのが、迂闊だったとしか思えないぐらいに。

「…………闇の」
「はぁい、もう、何さー?」
「その子供の『力』、探ってみるといい」
「は? 急に何を……」

 訝りながらも、闇の王は「まぁいいけどね」と俺の求めに応じた。その表情が、呆気に取られたものに変化したのは、そのすぐ後のこと。気付いたのだと、その表情だけで理解する。

 子供から感じる『力』の流れ。人間の、しかも幼すぎる程の子供が持つには不似合いな力は明らかに不自然で、しかしその力の流れだけは自然なものだった。
 あるがままに、周囲に逆らわず、溶け込むように。
 それは、あの荒野で感じ取った力と似ていた ―――― 否、同じものだった。

「え、あれ、これもしかしなくてもあの向日葵……」
「お前もそう感じるのなら、多分間違いなくそうだろう」
「…………いやいやいや」

 ちょっと待とう、と闇の王は呟いた。もはや、何に待てと言っているのかも判らない。が、気持ちは判らなくもない。

「う? おにーちゃんたち、どうしたの?」

 ひとり、何も判っていない子供がきょとんと首を傾げる。

「おつかれなの?」
「いや、うん……君のおかげでね」
「?」

 原因だけが、何も判っていない。それもまた、頭の痛い事実ではあったが。

「あ、そうだ! おにーちゃんたちはなまえ、なんていうの?」

 続けざまに繰り出された質問の方が、もっと頭が痛かったように思う。
 ……こんな躊躇いなく、精霊に名を尋ねる人間は普通存在しない。

「……というか、今反射的に名乗りそうになった自分にびっくりー」

 茶化した口調で、しかしその実いつもよりも真剣味を帯びた眼差しで闇の王が言った。その言葉に、内心で同意を返す。反射的に名乗りそうになったのは自分も同じだった。

 何か、強制力があったわけではない。
 ただ、自然に。普通の会話の延長上のように。応えそうに、なった。

 精霊の真名は、人間の名とは扱いが少し異なる。精霊が真名を呼び合うことなどほとんどなく、それを許す相手も限られている。人間相手に真名を明かすのは、魔法使いの使い魔になる時ぐらいだ。

 なのに今、真名を名乗りそうになった。

 “光を司る王”と、いつの間にか付けられていたそんな名称ではなく。
 正真正銘、己の名前を。

「あー、何かもう、ワケ判んないねぇ。どこからツッコんで良いものやら。とりあえずね、精霊に簡単に名前聞いちゃ駄目だよ」
「? どうして?」
「精霊の名前は、人のものとは少し違う。軽々しく呼んでいいものでもない」
「う? なまえよべないと、さびしくない?」

 不思議そうに首を傾げた子供が、寂しくないかと問う。

「そこにいるのに、よべないのはさびしくない? よびたいのによべないのは、こまるよ?」

 それは、あまりにも真っ直ぐに、子供ながらの無邪気さと純粋さを持って紡がれた言葉だった。だからこそ、返す言葉に詰まる。
 子供が、言う。呼びたいのに呼べないのは、嫌だと。


「なまえよぶのも、よんでもらうのも、オレはすきだよ」


 そう言って、一点の曇りもなく微笑うのだ。


 名前を呼ぶのは、その存在を認めているということ。
 名前を呼ばれるのは、自分の存在を認めて貰っているということ。

 子供の告げる世界は単純で ―――― だからこそ、真理でもあった。

 その時の気持ちを、言葉で言い表すのは難しい。
 けれど、確かに胸を過ぎった『何か』。


 それの名前を、その時の自分は知らなかった。


 闇の王は、すとんと表情を消していた。それは、何も感じていない無表情というよりは、単純に表情を選び損ねたように見えた。

 ああ、そうだな。闇の王。
 どれだけ長く生きていても、どれだけ多くのことを知ったつもりになっていても。
 生まれて数年、そんな存在の放った言葉に敵わない。

 ああ、そうだ。認めよう。反射的にしろ、真名を名乗りそうになったのがいい証拠だ。


 ああ、そうだな。認めよう。

 だから ――――……。




「――――……リィ!」

 不意に。
 誰かの声が微かに響いた。まだ少し幼さの残る少年の声。その声に反応して、子供が顔を上げる。

「ラズリィ!」

 今度ははっきりと声が響いた。それと共に姿を現した少年に、子供はぱっと顔を輝かせる。

「りとにぃ」

 自分を呼んだ舌足らずな声に気付いた少年が、次いで子供の姿を認めて遠目にも判るほどにほっとその表情を緩ませた。今の今まで方々を走り回っていたのだろう、額に汗を滲ませて息を弾ませながらも、ひと息に子供の元まで駆け寄ってくる。
 ―― そして、にこにこと自分を迎えた子供の頬を、その両手で容赦なく引き伸ばしてみせた。

「うううううう、りとにぃ、いひゃいー!」
「ラズリィ。俺は、お前に、一人で勝手に出歩くなと、あれ程言ったよな?」
「うううううう!」

 ひと言ひと言区切るようにして言いながら、少年は子供の顔を覗き込む。覗き込まれた子供は、もはや涙目だった。抓まれた頬がかなり痛いのか、手をじたばたとさせている。

「言ったよな!?」
「ご……ごぇんなひゃいいぃぃっ!」

 両者共に心底真剣な攻防なのだが、主に彼らの年齢的なものが原因で光景的にはかなり微笑ましい。悲鳴に近い声音でごめんなさいと繰り返し言う子供に、少年はひとつため息を吐いて手を離した。

「まったく、もう……とりあえず無事で良かったけど」

 声に確かな安堵の色を滲ませて、少年はもう一度ため息を吐いた。
 ちなみに、子供は手や足、果ては顔までにすり傷だの切り傷だの引っ掻き傷だのを無数にこしらえており、傍目には到底無事とは言い難い状況であった。が、少年は迷いなく無事で良かったと言い切る。怪我をしていようが何だろうが、とりあえず生きていれば無事。そこはかとなく基準がおかしいが、子供に限って言えばこの認識で間違っていない。

「しんぱいかけて、ごめんなさい……」

 しゅんとなって、子供はもう一度謝罪の言葉を口にした。ふっと瞳を緩めた少年が、ぽんと子供の頭を撫でる。

「もう、いい。ほら、帰るぞラズリィ。父さん達も心配してる」

 差し出された手を、うん、と頷きながら握り返して。歩き出す前に、子供はぐるりと周囲を見回した。そこにはもう、誰の姿もない。

「……いなくなっちゃった」
「? ラズリィ?」

 ポツリ、と呟いた子供を振り返り、少年は何かあったのかと子供に問う。それに何でもないとふるふると首を振って答えながら、子供はもう一度ぽつりと呟いた。


「なまえ、ききそびれちゃったなぁ……」










 小さくなる背中を見送って、ひとつため息を落とす。まったく同じタイミングで、隣からもため息が零れた。視線を動かせば、闇色の瞳と目が合う。

「闇の」
「……何さー?」
「お前は、これからどうする?」

 端的に訊きたいことだけを口にすれば、返ってきたのは沈黙と微妙な表情だった。普段見せるへらりとした笑いなどどこかに置いてきたような表情で、闇の王は困惑気味に軽く眉を寄せている。

「とりあえず、あの時の力の持ち主は判明した訳だが」
「あぁ……ねぇ」

 荒野に緑を広げ、ありえない程巨大な向日葵を咲かせるといったある種非常識な力の持ち主。それが、先程までここにいた子供で。
 間違いのない、事実ではあるのだろうと思う。何よりも自分で、あの子供の力の流れは確認した。闇の王も、同じものを感じ取った。

 ありえない程に非常識であるのに、どこまでも自然な力の流れ。決して逆らわず、溶け込むように ―――― 周囲のものをすべて巻き込んで。
 自分が今覚えているこの感情も、巻き込まれた結果なのかもしれないと思う。しかし、それも悪くはない。
 そう、悪くはないのだ。

 認めようと、思った。
 子供の言葉は、確かに真理を突いた。

 単純に、真っ直ぐに、核心を突いた。


「俺は、あの子供のところへ、行こうと思う」


 名前を、呼んで欲しいと。

 そう、思ったのだ。


 俺の言葉に、闇の王が軽く目を見開いて驚きの意を示した。

「…………使い魔に、なりに行くって?」
「簡単に言えば、そうなるな」
「……本気?」
「あぁ、もう決めた」

 あっさりと言えば、今度はぱたりと黙る。

 あぁ、そうだな。闇の王。
 お前も、もう認めてしまえばいい。

「お前は、どうする?」

 先程も口にした問いを、敢えてもう一度言葉にした。
 闇の王は、すぐには答えなかった。口を開きかけて、また閉じてしばらく沈黙を守り ―――― やがて、肩の力を抜いて、はーっと大きく息を吐き出した。

「……ずっと、さぁ……」

 ぽつりと、呟くように言葉を押し出す。

「ずっと、使い魔なんてモノになる精霊の気持ちが判んなかったんだけどねぇ」

 今なら判る、と闇の王は顔を上げた。
 そこに浮かんでいたのは、苦笑めいた笑みで。

 ああ、そうだ、闇の王。もう、認めてしまえ。


「仕方ないね。だって、精霊はどうやったって、自分の存在を認めてくれる人間に弱いんだ」


 ここにいると、気付いて。
 名前を呼んで欲しいと、思う。

 ―――― 結局のところ、それはあの子供が言ったことそのままでしかなく。
 自分の感性に素直に従った子供の言葉は、あまりにも正確に真理を突いていた訳だ。もう笑うしかない。

 闇の王が俺を見て、少しだけ驚いたような表情になった。が、それも一瞬のことで、すぐにまたその表情を変化させて口を開く。

「なーんか、君がそういうカオしてるの初めて見た」
「? 何の話だ?」
「……うん、自覚がないワケだね。まぁいいや」

 闇の王は、ひらひらと手を振った。

「―――― うん。俺も決めた」

 何を決めた、とは言わなかった。訊くのは、今更だと思う。


「仕方ないよねぇ? 理解っちゃったんだから」


 言って、ふわりと闇の王は笑う。


 いつも、という訳ではなかったが、それでも、笑っている印象の強い相手だった。
 そんな相手に対して思うことではないのかもしれなかったが。

「俺も、本当に笑っているお前を見たのは初めてだ」

 淡々とそう告げれば、目の前にある闇の王の顔がぽかんとしたものに変化した。


















 あれから、時は流れて。
 宣言通りに子供の使い魔になった俺と闇の王だったが、しばらくは周囲が騒がしかった。何故使い魔などに! と眷属のものに詰め寄られたことなど、何度あったかも定かではない。

 ……何故と、詰め寄るその気持ちも、判らなくもないと思う。
 ずっと、使い魔になる精霊の気持ちなど判らないと思っていた。何を好き好んで、そんな立場に、と。

 人を、疎んでいたわけでも、厭っていたわけでもない。
 けれど、わざわざ近付きたいとも思っていたわけでもなかった。


 名前を、呼ぶこと。
 そこにいると、認めて。

 ―――― ここにいてもいいのだと、認められて。


「フィル? どうかした?」
「……いや、何でもない。行こう、ラズ」

 赤い瞳で俺を捉えて、僅かに首を傾げながら問う相手に、緩やかに首を振って先を促した。


 今なら、理解できる。
 人に、名を預けようと思う精霊の気持ちが。


 そこにいるのだと、認めて。
 ただ、名前を呼んで。

 それだけのことを、ただ望む。



 過去も未来も現在も。

 それはきっと、変わらない。

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