Neva Eva

はじまりの魔法
 そういえば、と思う。


 “始まり”というものを、オレはよく覚えていない。










 『学院』寄宿舎、そこの談話室。
 生徒たちへのくつろぎの場として開放されてるそこを、夕食後とかの自由時間に利用することは多い。セファとかシアなんかは、人が多いところが嫌い、とか言って滅多にここに顔を出すことはないけど、気が付けばそれ以外のメンバーが揃っちゃったりするのも、割といつものことだ。
 ―――― で。

「初めて魔法を使った時……?」

 唐突に振られた話題に、オレはきょとんと首を傾げた。

「え、何でそんな話?」
「や、特に意味はない」

 きっぱりとリュカが言い切った。ないのか。
 隣でレディも頷く。

「そう、意味はないのよ。あるのはむしろ興味かしらね」
「……そっか」
「そうよ」

 ……うん、レディのそういうはっきりしすぎてるとこ、いいなぁって思うよ。

「初めて魔法を使った時、かぁ……」

 いつだったかなぁ、と首を傾げる。かなり前だっていうのだけは確かだけど。
 そこまではっきりと覚えてるワケじゃない。どちらかというと、ぼんやりとあぁそんなこともあったっけー? と思う程度のものでしかなくて。

 だって、確かオレが初めて魔法らしきものを使ったのって、三歳かそこらの頃だし。そんなちっちゃい頃の記憶とか、そこまで鮮明に覚えてるものじゃなくない?

 それにさ、確かあの時って……


「―――― 何か軽く死に掛けてたような気がする」










  *************

 気付いた時には、青空を見上げていた。
 本当に、気付けば。地面に寝転がっている状態で、子供は空を見上げていた。

「うー……」

 随分と身体中が痛い。起き上がろうとしたその瞬間に、声も出ないほどの痛みに襲われたので、起き上がるのは早々に諦めた。おそるおそる腕を動かそうとしてみれば、ほんの少しの動きなのに一瞬息も詰まるほどの痛みに見舞われたので、動くことも諦めた。
 じわり、と涙が滲んできたが、滅多なことでは泣くんじゃない、という兄の言葉が脳裏を過ぎり、子供はぐっと唇を噛み締めて、涙を振り払うようにふるふると首を振った。否、振ろうとして悶絶した。

 ずきずきする全身に再び泣きそうになりながら、子供は考える。何故、自分はこんなところにいるのだろう、と。
 確か自分は、父親や兄と姉と一緒に、母に会いに来たはずだ。病気で療養中の母を見舞うために、国境を越えてカディアまで来て ―――― 現在どうしてだかこんな状況。

 ローゼット山脈を越え、カディアの街に辿り着くその合間にある荒野で、ちょっと休憩を取ったことは覚えている。で、そこでぴょこぴょこと目の前を横切る珍しい動物を見付けて、その後を追いかけたことも覚えている。
 そして、気付いた時には空を見上げていたのだ。

 子供は、動物を追いかけるのに夢中になったあまり、家族がいる場所から離れ、しかもちょっとした崖のようになっていた場所から勢い良く滑り落ちたという事実には気付かない。子供の認識では、その過程が綺麗に省かれ、「いつの間にか空を見ていた」ということになる。
 身体中が痛いのも何故だろう、と首を傾げるばかりであったが、小さくとも崖から滑り落ちたのだ、痛くて当然である。命があるだけ儲けものというものだ。
 子供の家族が、姿の見えない彼を探して、今頃必死に周囲を駆け回っていることを子供は知らない。名前を呼ぶ声は、子供の元まで届かない。


 さわり……と乾いた風が子供の頬を撫でた。
 その僅かな感触に、子供は瞳を開け、そのことで今の今まで自分が瞳を閉じていたのだという事実を知る。目を閉じたという感覚はなかったので、内心であれ? と首を傾げた。

 視界が、ぼんやりとしている。
 鮮やかな青色が、滲んだみたいにぼやけていた。

 あれ……? と子供は再び内心で首を傾げた。目を開いているはずなのに、何でよく見えないんだろう、と。
 青色がぼやける。視界に、白と黒が多くなる。
 何だか眠くなる時の感覚に似てるなぁ……と思って、何だ自分は今眠いのか、と子供は納得した。
 自覚したと同時に、急激に視界のぼやけが酷くなって、子供はそれに逆らわずにゆっくりと瞼を閉ざした。

 くすくす……と微かな笑い声と共に、乾いた風がくすぐるように頬を撫でた。


 ―――― 大変、大変。
 ―――― 駄目よ。目を開けて。
 ―――― 呼んでいるわ。目を開けて。


 声が、する。柔らかな笑みを含んだ声。

「あ、うー……?」

 誰だろう、と思って子供はゆるゆると目を開けた。見えるのは、相変わらず綺麗に晴れた青空で。
 ぼんやりとした視界にも鮮やかに映る色彩 ―――― それ以外に、見えるものなどないはずなのに。

「……?」

 何か、他に見えたものがあった気がして、子供はあれ? と三度首を傾げた。


 ―――― そう、駄目よ。目を閉じては駄目。
 ―――― 目が、覚めなくなってしまうわ。
 ―――― そのままだと、死んでしまうよ……?


 ふわり、ふわりと、舞うものがあった。それは、確かに人の目には映らぬ類のものではあったのだけれど。
 ぼんやりする視界の中に青以外の色彩を見付けて、子供はそれを目で追った。

 ふわふわと、己の周囲を取り巻くように舞う、いくつかの影。


 ―――― おや……?
 ―――― あらあら?
 ―――― 見えているの?
 ―――― 見えているのね? ……すごいわ。


 くすくすと微かな笑みを乗せて子供を取り巻いていた気配が、いっぺんに騒がしいものへと変化した。すごい、すごい、とはしゃぐような声。
 子供には、何がすごいのか、すごいと言うその存在が何なのかさえ判っていなかったけれど。
 判っては、いなかったのだけれど。


 ―――― ああ、駄目よ。駄目。
 ―――― 目を閉じては駄目。起きて。
 ―――― 呼んでいるわ。だから駄目。


「だ、め……?」

 そうよ、と何かが笑う。ふわり、と頬を撫でる風の気配。


 ―――― このまま、は良くない。
 ―――― 良くないわね。
 ―――― そうね。それじゃ……
 ―――― 手伝ってあげる。


 ふふ……くすぐるような声が、言った。
 手伝ってあげる、と。


 ―――― 見えるのなら、使えるはずだもの。
 ―――― そうね。きっと、大丈夫。
 ―――― 手伝ってあげるから、頑張りなさい……?


「……?」

 ふわりと、再び風が頬を撫でた。
 水の匂いがする、と子供は思う。渇いた土地に不似合いな、濃い水の匂い。それから、ほんの少しの土の匂い。
 ほぅら、と声がする。


 ―――― 頑張りなさい。力を、貸してあげるから。


「ち、から……?」


 ―――― そう、癒しの力よ。


 微かな笑い声と共に、柔らかな声がそう告げた。


 ―――― ほら、呼吸を少し整えて。
 ―――― 判る? 判るでしょう?
 ―――― 感じるそれを、ほら……言葉にして。


 呼んで、と。

 そう、声が言ったように聴こえた。

「よ、ぶ……?」

 何を、とは訊かなかった。
 だって、多分自分はそれを知っている。

 何を、呼ぶべきなのか。
 何を ―――― 言葉にするべきなのか。

 だから。


「…………ぶ……き」


 掠れる声で、子供はそれに『応えた』。

 ごうっ……! と音をたてて風が渦巻く。水の匂いが、一気に濃くなった。


 ―――― そう、それでいい。


 どこか満足そうな声がそう告げたのと同時に、渦を巻いた風が、そのままの勢いでもって周囲に爆発するように四散した。











「ラズリィー!」
「ラズー! どこにいるのーっ!?」

 荒野に、幼い兄妹の声が響く。少し目を離した隙に姿が見えなくなった弟を、彼らは必死で探していた。
 幼い子供にはありがちなことだが、彼らの弟も例に漏れず、興味のあるものを見つけたら周囲の状況など何も顧みずに駆けていってしまうような子供だった。
 それだけならまだしも、その過程で必ずといっていい程に怪我をする。駆け出したらまず間違いなく転ぶ。もしくは滑る。あるいは落ちる。彼らの弟は、そのような運動神経の持ち主であった。不安になるなと言う方が無理である。
 その弟の姿が見えないと気付き、慌てて周囲を探してみたもののまるで見付からず、現在は父親と手分けして範囲を広げつつ捜索をしている最中だった。

「兄様、いた?」
「いや、こっちにもいない」

 息を弾ませながら問い掛ける妹の問いに、少年は首を振った。その拍子に額に浮かんだ汗がパタリ、と飛び散り、すぐに渇いた地面へと吸い込まれる。
 嫌な感じだと、少年はひとり眉を寄せた。

「どこに行っちゃったのかしら……?」
「判らない。無事ならいいんだが……」
「そうね。すり傷切り傷ぐらいですんでたらいいんだけど」

 不安げな表情を浮かべた妹が、少年と同じように眉を寄せてそう言う。加えて、打ち身に捻挫程度なら十分に許容範囲だな、と少年は思った。
 彼らの中には、弟がまったくの無傷であるという選択肢は存在していなかった。希望としてすら存在しない。
 別段彼ら兄妹が冷たいわけではなく、単なる慣れとそれに付随する理解ゆえの賜物である。

「そう遠くへは行ってないと思、う……」

 ふと。 周囲へときょろきょろと視線を走らせていた妹の視線が一箇所に固定された。同時に声が不自然に途切れる。

「? どうした、ティ……」

 不審に思った少年が少女を振り返り、疑問の声を発しようとしたところで、同じように固まった。
 固まるしかないような光景が、目の前に広がっていた。

 ちょうど前方。見渡す限りの荒野の中、何故だか振り仰ぐような位置に ――――……

「…………向日葵?」
「そう、ね……?」

 見えたものを端的呟いた少年に、妹がこれまた端的に同意を返す。
 ごくあっさりと返ってきてしまった同意に、どうやら夢や幻の類ではないらしい、と判断した少年が呆然とした呟きを漏らした。

「何で、こんなところに向日葵が……」
「まず、あの大きさについて言及しましょう? 兄様」

 妹の言葉は、もっともなものであった。

 荒野に咲く向日葵。
 それだけでも違和感はありすぎるほどなのだが、咲いているその向日葵が、大樹もかくやという程ににょきにょきと伸びていればもはや違和感どころの話でもない。植物としてありえない。
 しかも見間違いでなければ、向日葵は今も増殖している。加えて、その周囲も見る間に木が生え草が生え、遠目にも緑が増えていっているのが判った。

 呆気にとられる兄妹の目の前で、森が広がっていく。
 つい先刻までは、確実に荒野でしかなかった場所に、だ。

「何なんだ、一体……」
「すごい……」

 目の前の光景は、完全に兄妹の理解を超えていた。

 瞬く間に荒野に森が出来るとか、何。
 そんじょそこらの大木よりも余程見事な成長を遂げている向日葵って何だ。


 訳が判らない、と顔を見合わせた兄妹は、しかしその幼さゆえの好奇心からその森へと足を踏み入れた。
 そして、その森のほぼ中心 ―――― 澄んだ水を湛える小さな湖のほとりに探していた弟の姿を見付けて、慌てて駆け寄ることとなったのである。











  *************

「…………と、まぁ、そんなカンジだったワケなんだけど」

 オレの曖昧な記憶と、リト兄たちから聞いたその時の状況を併せて話し終わったら、目の前にあったのはレディとリュカの微妙な表情でした。え、何故にそんなカオ。

「いや、何つーかさぁ……」
「どこからツッコんでいいものか迷う話よね……」
「ほぇ?」
「そもそも、死に掛けてたってお前……いや、そこはいいか、もう」
「そうね。割と日常茶飯事だわ」
「…………」

 そういう納得のされ方もどうだろう。
 そして、反論できないオレはもっとどうだろう。

「で? 結局、ラズの初めての魔法は失敗したってことなの?」
「や、一応成功はしたんじゃない、かなぁ……?」

 うん、一応は成功だと思う。だって、アレで怪我は治ったし。
 リト兄たちが見付けてくれた時、オレは怪我ひとつない状態でぐーすか寝てたって話だから、多分あの時使った魔法で治ったってことで間違いはないだろう。

「どっちかっていうと効果が出すぎて、余った分の魔法力が大地に還元されたっぽい……」
「それ、暴走って言わないか?」
「い、言うかも……?」
「言うでしょ。間違いなく」

 ……やっぱり?
 容赦ない二人のツッコミに、オレはあははと渇いた笑いを漏らした。うん、そんな気はしてた!

「治癒魔法暴走させて荒野を森に変えるとか……どんだけ非常識だよ、お前」
「え、違っ、非常識じゃないよ!?」
「いや、だって地属性と水属性の上位魔法使い数人掛かりでやるようなことを、三歳児が成し遂げるかぁ? フツー」
「ふ、不可抗力!」

 あの時は生きるか死ぬかの瀬戸際だったの、オレ! その自覚はあんまりなかったけどね!?

「ていうか、何で向日葵なの」
「そ、それはオレにも判んない……っ」

 レディの疑問は、オレにとっても永遠に判る気のしない謎だったので素直にそう答えた。
 そしたら。

「あぁ、でもまぁ、ラズだしね」
「ラズだしな」

 アリだろう、と何故だか諦めの入り雑じった納得の声を漏らされました。

 …………納得された事実に納得いきません。

















「げ、あれ君だったの?」

 お昼時。昨日オレがした話を、リュカがそのまんまセファに話してて。
 そんで、開口一番にセファから出てきた台詞がそれだった。……ほへ?

「え、何が?」
「だから、その常識外れの向日葵」

 心底嫌そうな表情で、セファが言う。 リュカが軽く首を傾げた。

「何、お前それ見たことあんの?」
「見たことあるも何も……実際にソレ始末させられたの僕だからね」
「……ほぇ?」

 何だって?

「あのね、荒野に突然森が出来ましたとか言ったら、普通は『学院』に報告が行くよね?」
「うん」
「で、森が出来た、ってだけでも十分アレだけど、その上馬鹿みたいなサイズの向日葵とか咲いてたら、間違いなく最優先で狸ジジイのところまで報告が行くよね?」
「う、うん……」

 ていうか、狸ジジイって。
 いや、うん。それが誰を指してるのか、即座に判っちゃうのがちょっとアレだけど、まぁそれは置いておくとして。

「あー、やっぱ普通じゃねぇもんな、特大サイズの向日葵」
「あれを見て普通だとか言う人間がいたら、とりあえず正気を疑うね」

 きっぱりはっきりざっくり。
 遠慮も容赦もなしにセファは言い切った。
 いや、もう……うん。遠回しなんて何もない、その直球さ具合がいっそ気持ちよいと思います。

「報告を受けた『学院』側は、すぐさま対処に乗り出したワケなんだけどね。そんな非常識な物体放置するわけにもいかないから」
「っても、大元の非常識人物は放置されたみたいだけどなー」
「……あぁ、まぁ、それはね……」
「え、ちょっとっ!?」

 何それどういう意味!? ていうか、何でそのタイミングでオレを見る!

 何故かリュカに頭を撫でられながら、うー……と唸ったけど、そんなものどこ吹く風といった様相のセファにあっさりと無視された。……コンチクショウ。

「話を戻すよ。その非常識物体、見た目以上に厄介なシロモノでさ」
「う、うん」
「魔法に対する耐性が異常に高くて普通に枯れさせようとしても無駄だわ、根を少しでも残してたらその状態から再生するわ……」 「…………」
「挙句の果てには、種ばら撒いて繁殖しようとするわ」
「うーわー……、そりゃすげぇ」

 リュカが呆れたような、感心したような、そんな微妙な声音で相槌を打った。
 いや、えっと……あの、気のせいじゃなければ、何かセファの不機嫌度が増してるような気がね? してね……?
 頬杖を付いて、ふぅ……と大きくため息を吐き出してセファは言う。

「……さて、そんな面倒かつ技量もそこそこ問われるような処理を狸ジジイから押し付けられる先って……どこだと思う?」

 あ、あれぇ? これって……、

「え、えと……“紫の宮”?」
「正解」

 にっこりとセファが笑った。
 セファの笑顔は、割と珍しい部類に入ると思うんだけど……見た目だけならすごく目の保養的な笑顔だと思うんだけど! 目、目が全然笑ってない! あと纏ってる気温が氷点下!
 危険を察知したリュカが、実にさり気なく椅子ごと移動してるのが視界の端に映った。……って、ちょっとおぉっ!?

「で、運悪く“紫の宮”にいて、手持ちの仕事もなかった僕が、その面倒事の後始末に出向いたワケだ。わざわざ国境越えてカディアまで」
「えーっとぉ……」
「そう……あれ、君だったんだ?」
「ごっ……ごめんなさいいいぃっ!」

 全力で謝りますごめんなさいっ!

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