Neva Eva

英雄の欠片 10
 ぐにゃり、と景色が歪んだ。

 それはまるで、真昼の陽炎のような。

 異変に気付いた人間が、庭園のあちこちでざわめきを上げる。
 歪んだ景色が、ゆるりと形を変えた。

 変化は、一瞬。
 ほんの少し前まで確かに何もなかった空間に現れたのは、人影。
 最初に現れたのは、まだ成長途上の少年のもの。それから、続けざまにもう二つ。
 色素の薄い茶の髪が、風に吹かれてふわりと舞った。


 あぁ……と思う。

 それは、あの日見た光景と同じ ――――……。



「……同じね」

 ポツリ、とレディが呟いた。
 わあっ! と上がった歓声に掻き消されてしまいそうな程の声音だったにもかかわらず、不思議とそれは遮られることもなく俺の耳まで届いた。

 呟いたレディは、複雑な表情をしていた。
 笑ってるような、泣いてるような、懐かしんでるような ―――― あるいは、それを全部ひっくるめたみたいなカオをして。

 多分俺も、似たような表情をしてるんじゃねぇかとは、思う。同じだ、と思ったのは俺も一緒だ。
 何が同じなのか、なんて、そんなことは訊かない。訊かなくても、知ってる。だから。

「そうだな……」

 ポツリ、と同意を返して、俺は顔を上げた。

 見上げた先、そいつは突然上がった歓声にびっくりした様子で、赤い瞳を大きく見開いていた。


 あの日の空は、こんなにも青くはなく。
 そこにいた人間の表情も、こんなに晴れやかなもんじゃなかった。

 誰かが向けた、悪意のような。
 あるいは、誰かが抱いた、絶望のような。
 そんな、負の感情に染まった世界。あの日の光景は、今も瞼に焼き付いてる。忘れようと思っても、離れやしねぇ。

 今、目の前にある光景は、あの日とは全然違う。
 青くどこまでも綺麗に晴れた空に、わき上がる歓声。人の笑顔。

 その中で、ただひとつ。
 何の前触れもなく、忽然と現れたラズの姿だけが、あの時とまるで『同じ』だったのだ。

「すごい……!」
「えっ、今……ええええええぇっ!?」
「ちょっと……今のご覧になりました!?」
「すっげえええええぇっ!?」
「素晴らしい素晴らしい素晴らしいっ!」
「何だあれ! お前、ちょっ、今の見たかっ!?」
「見た見た見たっ! 見たけど全然訳判んないっ! 何あれ何で人が出てくるのおぉっ!?」

 ……うわ、耳痛ぇ……。

 ラズが露台に姿を現したことで、それまでシンとして、どっちかってーと厳粛な空気で包まれてたはずの庭園は、一気に興奮の渦に巻き込まれたような状態に陥った。広がる喧騒はもはや暴力的な程で、正直な話本気で耳が痛い。

 しかも、アレだ。俺とレディがいる位置は、城の庭園の片隅で、限りなく城壁よりの場所 ―――― ぶっちゃけ、そこまで高くもない壁の向こう側に街の人間がいるような状態だったりする。おかげで、庭園内にいる人間だけじゃなくて、外からの歓声もしっかりばっちり聴こえてきてて、騒がしいことこの上ない。
 少しばかり上品なのが庭園内のもので、それよりもちょっとばかり興奮気味なのが外のもの。声量的にはどっちもどっちってとこだ。遠くの方から地鳴りのような唸りが聴こえてくるのは、多分城下の街からの歓声だろう。豆粒程度とはいえ、あそこからでも露台の様子は見えるからなー……。

 つーか、まぁ、騒ぎたくなる気持ちも判らんでもない。
 何せ相手は伝説級の人物だ。三十年前、“大崩壊”の終結と共に姿を消した、“魔術師の王”。
 その帰還の報に、懐疑的だった人間も多数いるだろう。偽者じゃねぇのか、ってそう思ってた人間もいるはずだ。
 だがしかし、あんだけ派手な登場をかましてきたラズを見て、その疑いを持ち続けるってのも、なかなか難しいことなんじゃねぇかと思う。

「あれが、“魔術師の王”……」

 ほら、な。
 こんな風に、有無を言わさぬ力を示したりするから。

 熱狂の声に雑じって聴こえた、そんな呆けた声に、内心で少しだけ笑った。いやだって、普段はあんななのに、とか思うとな? とりあえず笑えんだろ、うん。
 そんな、まさか、まったく変わってないじゃないか……という声も聴こえて、俺はそれに小さく笑みを浮かべた。きっとその声の主は、三十年前のラズの姿を知ってる人間なんだろう。それは少し、嬉しいことのような気がした。何となくだけどな。
 んでもって。

「………………思ったよりも、随分小さ……いやいや、幼い、ような……?」

 更にそんな呆然とした呟きが聴こえたのも……まぁ、判らんでもないわな。

 つか、判る。判る辺りがどうなんだろな、って話だが。
 いや、とりあえずそれはさて置き。

「やっぱ普通は驚くよな。ラズの魔法」
「そうねぇ……昔っからこんなんだったから、ちょっともう驚くって感覚がマヒしちゃってるけど」
「だなぁ。いや、すげぇことやってる、っつーのは判るんだけどよ。それやってんのがラズだと思うと、驚く気も失せるっつーか、納得するしかねぇな的な何かが」
「あぁ……判らなくもないわね、それ」
「だろ?」

 だってラズだし。
 ……ぶっちゃけ、説明なんてこれだけで事足りるような気がすんだよな。

 非常識なものを、目の当たりにしているとは思う。
 実際、空間ごとどこかとどこかを繋げてしまうような、そんな力ある魔法使いがこの世に何人いることか。音声、姿のみといった制約を設けて、鏡や水面といったものを媒介に遠方との対話を可能とする、その程度のことであれば、何もそんなびっくりするほど難しい、ってワケじゃねぇ。……っても、空間ごと繋げる、っつー暴挙と比べての話だから、一般レベルの魔法使いがおいそれと行使できるモンでもねぇけどな。
 それでも、音声と姿のみであれば、個人でもどうにか行使できるような魔法だ。どこかとどこかを空間ごと繋げて移動する、そんな大技を繰り出そうと思えば、まずは事前に陣を敷く必要もあるし、個人の魔法力だけではまず足りない。
 陣 ―――― 魔方陣、っつった方が通りはいいかもしんねぇけど、要するに目印だな。どこに目掛けて飛べばいいのかっつー目印。目的地に旗が立ってるようなモンだ。そこまで準備してから、初めて魔法を行使する。

 普通は、そうだ。―――― 改めて強調すんが、普通なら。

「あいつ、『イメージ』だけで空間飛ぶからなー」
「非常識にも程があるわよね」

 まぁな。今に始まったこっちゃねぇけど、非常識だよな。
 あの非常識な王サマは、自分の中に行きたい場所のイメージさえあれば、陣なんてモンがなくても、どこにだってひょいひょい飛んで行ける。

 至極、気軽に。息をするような、自然さで。
 飛んで、来るのだ。あの子供は。

「……あの時も、そうだったものねぇ」

 ふ、と吐息のような囁きをレディが漏らした。

「日常なんてどこにもなくて、絶望があって。そんなとこに、ひょいって飛んで来ちゃったんだものね、あの子」
「あァ……」

 そうだな。確かに、そうだった。
 非日常に、非日常を足しただけのような、そんな行動だった。
 離れた場所に、陣も何もなしで身一つで飛んで来るとか、何だそれ人間かっていう行動。それはまったくもって否定できない。

 なのに、確かにあいつはあの時、『希望』も一緒に連れて来たのだ。


 あの日の空の色を、覚えている。
 あの時見た、俺よりも小さな背中を覚えている。

 取り戻した空の色は、ちょうど今日の空みたいな、どこまでも広がる青だった。

 あの日と同じものがあって、あの日と違うものがある。
 空がいつもの青さを取り戻したその時、あいつの姿はもうどこにもなかった。

 だけど今、眩いばかりの青い空の下、あいつは三十年前と同じ姿でそこに存在している。
 見上げたその先、確かに、そこにいるのだと。

「……慌ててるわね、あれ」

 隣でレディがぷっと小さく噴出した。
 視線の先にいるのはもちろんラズの姿で、現在レディの言葉通りやや挙動不審な感じがする。
 や、うん。やや、ってか、バッチリ挙動不審だ。でもいつもに比べれば、かなり控え目な反応だと思える辺りがどうなのか。

「慌ててる、っつか、むしろテンパってるだろ。あれ」
「大混乱、ってとこかしら? 飛んで来た先で大歓声上げられて吃驚ー、みたいな?」
「だな、そんな感じ。それを闇の王辺りに『はいはい、きょろきょろしないんだよー』と窘められて強制的に前向かされてる、ってとこか?」
「ぷっ……あっはははは! ものすごくそれっぽいわね、って笑わせないでよちょっと」
「やー、だってラズの動揺があの程度で済むとか、到底思えねぇし」
「筋金入りのリアクション大王だものね」
「ぶっ……! ちょ、お前こそ笑わせんなよ」

 リアクション大王て。しっくり嵌まりすぎてて笑う以外にどうしろと。
 必死に笑いを噛み殺す俺に対して、レディは涼しいカオでだってホントのことじゃない、と笑顔で言い切った。や、確かにそうなんだけどよ。

「つーか、そもそもこういう事態をまるで想定してねぇってのがすげぇよな」

 自分がどんな存在で。民衆の中でどんな位置付けになってて。
 それで、こんな式典なんて開くっつー話になったら、大体どんなことになるかぐらい、予測してしかるべきだよなぁ……?
 俺の疑問を、レディは無理でしょ、と一刀両断してみせた。

「自分がどんな存在かも、どんな位置付けになってるかも、判ってるようで判ってないもの、あの子」

 認識がズレてるのよねー、とそりゃもうバッサリだ。いっそ清々しい。そして真っ当に正論だ。

「―――― 静粛に」

 不意に、大歓声の中響いた声は、学院総代の爺様のものだ。多分風魔法を補助で使ってるんだろう、やたら遠くまではっきりと良く響いた声に、露台に近い場所から順に波が引くようにざわめきが収まってゆく。
 シン……と広まった沈黙は、けれど少しでもつついたら弾けそうなぐらいの緊張感を纏ってて、肌で感じる人々の熱気が痛いぐらいだった。……あ、ラズが引いてる引いてる。超引き攣ってる。

 露台からこちらを見下ろして、爺様が笑んだ。
 普通の人間から見れば威厳のあると言えなくもない、だけど俺らからしたら「まーた何かロクでもないこと企んでんじゃねーの?」っつーカンジの笑みは酷く楽しそうで、作り物じゃねぇそれを浮かべた爺様は、正装服の裾を綺麗に捌いてラズと使い魔さん方の方を指し示した。

「さて、この者たちを見知っている者も、そうではない者もいるじゃろう。だが皆、この者たちがどんな名で呼ばれておったのか、それは等しく知っておるはずじゃな」

 彼らの持つ力の片鱗は、今示した。

 そう告げた総代の声に応えたのは、僅かなざわめき。否定的なものじゃねぇのは、興奮気味の空気からしてもすぐに判る。
 あー……、何かこう……耳栓でも用意しとくべきかね? 微妙に嫌な予感がするんだが。

 が、爺様はそんなモン準備する間もくれずに、笑みを浮かべたままぐるりと周囲へ視線を巡らせると、ゆっくり……ひと言ひと言を噛み締めるみたいな調子で、言を継いだ。

「今ここに、エルグラント王立魔法学院総代、ゼルティアス・グローリーの名において、“魔術師の王”ならびに王の使い魔たちの帰還を宣言しよう」

 それは、確かに宣言。
 学院総代としての、確固たる言葉。

 揺るぎない言葉は力となり、それはそのまま皆へと伝わる。
 余すところなく、きっちり、綺麗に。

 ……まぁ、つまり、何が言いたいかといえば、だ。


 ―――― わああああああああぁっ!


 きっちり綺麗に伝わったそれに応えるような大歓声に本気で耳が痛ぇわ畜生!

 湧き起こった歓声は、さっきよりも数段凄かったように思う。いやもうマジで。
 何つーか、総代は人を乗せるのが滅法上手い。今みたいに、注目を集めて自分の持って行きたい方向へ人の関心を持ってく、なんてのは、もう本当に得意分野ってヤツだろう。
 舞台整えて、かつ根回しして、とことん自分が楽しめる方向に持ってくの好きだもんな、あの爺様。アレは内心絶対むっちゃイイ顔で笑んでる。や、表でもフツーに笑んでるけどな、内心はそれ以上の勢いで笑んでる。これ確信。
 だって視線の先、さっきの言葉とそれによって巻き起こった大歓声を受けて、ラズの落ち着きがない。全然ない。で、ラズが落ち着きを失くせば失くすほど、爺様が楽しい。……見事に捻れた関係性だぁな。

 てか、楽しそうって言えば、爺様の隣にいる皇太子殿下も相当楽しそうだよな。
 にっこりと、こっちは爺様と違ってもろに育ちの良さを感じさせる笑みを浮かべた皇太子殿下 ―――― レガート・エン・ウィルダナリア・エルグラント……だったか? まぁ、名前で呼ぶことなんざないと思うが、正真正銘この国の第一王子にして跡継ぎの青年は、近年国王の代理として公の場に姿を見せるようになって久しい。だから今回、露台でにこやかに笑む皇太子殿下の姿は、民衆にとって半ば予想通り、といったものだろう。

 つーか、こんな間近で皇太子殿下見たのも初めてかもしんねぇなー。下手をしなくても、大体俺たちの子供と同年代というような若さの殿下だが、脆弱な感じは欠片もしない。何つーか……甘く見て掛かって、手痛いしっぺ返し喰らう感じならものすんげぇすんだけどな? これどこの遺伝だ。
 皇太子殿下は、何というか本当に楽しそうだった。笑顔が眩しい。
 きらきらしいんだ……、存在そのものが眩しいんだ……っ、と主張してたラズの言葉にも、成程と素直に頷けた。あいつは昨日、この皇太子殿下に拉致られて対面を果たしている。

 皆が歓声を上げる中、皇太子殿下が動いた。にこやかな笑みを絶やさずに、ラズの真正面となる位置まで移動した彼は、そこで一度瞳を閉じた。
 設けられた一瞬の間に、響き渡っていた大歓声が少しずつ収まっていくのが判る。……お見事。
 歓声が、ざわめき程度に落ち着いたのを見計らって、皇太子殿下は口を開いた。

「“魔術師の王”、ラズリィ・ヴァリニス。私は貴方の帰還を、とても嬉しく思う」

 また、今この瞬間、自分がこの場に立ち会えるということも、嬉しく思う。

 おそらくは嘘偽りのない素直な心情を口にして、殿下は微笑んだ。
 舌が縺れそうな言い回しも、歯が浮きそうな褒め言葉もそこにはない。使おうと思えばいくらでも使えたはずのそれを全部綺麗に取り払って、皇太子殿下は自分自身の言葉でもってラズに話し掛けた。

「貴方が開いてくれた未来に、残してくれた希望に、私は惜しみない感謝と畏敬の念を捧げよう」

 ありがとう、とごく自然に続けられた言葉に、ラズが一瞬瞳を瞬かせたのが見えた。皇太子殿下は、やっぱりにこやかに笑っている。

 あー、成程成程、こういう人物なワケだな皇太子殿下、と内心で納得しながら俺はその光景を見上げていた。
 いや、もう……耳が痛ぇのは諦めた。周囲皆して熱狂状態とか……普通に止めるの無理だろ、これ。かといって、雑じるのも無理だ。無理無理。だって、皆が熱狂してるのって、ラズとかその辺の存在に対してだろ? 無理だって。
 帰って来た姿見て、あー変わってねぇなぁ……としみじみはできても、アレを敬うのは何かちょっと違うだろ、っつー心境だ。やっぱ無理。

 感謝は、してるんだ。
 俺たちは、確かにあいつに希望を貰ったから。

 絶望のあの日に取り残されてしまうこともなく、今を生きてゆける。それは確かにラズがいたから出来ること。
 けれど、「ありがとう」と。
 伝えるべき言葉はもう本人に伝えちまったから、さてどうしたもんか……と若干困った今現在、ってところだ。重ねて言うが、雑じるのは無理だからな。

 少しだけ苦笑を浮かべながら俺はまた露台の方を振り仰いで ――――……

 ふと、その瞬間に覚えたものを、何と言い表せばいいのだろう。

 見上げた先にある、青い空。あの日取り戻した、もの。
 帰って来た、ラズの姿。人々の歓声と笑顔。

 それは、幸福の形としてそこに存在してるものといっても良かった。
 それなのに。

 胸の内、過ぎったのは ―――― 予感。
 式典が始まるよりも前……、あの夜の日に覚えたものと同じもの。

「……レディ」
「え、何? 今呼んだ?」

 周りの歓声があまりにも凄かったせいだろう。俺の呼びかけに、レディが微妙な間を置いて振り返った。それを見ることもなく、俺は露台の方を振り仰いだまま言葉を続ける。

「お前、今何か感じるか?」
「え? ……ううん。何も?」

 レディの声の調子が訝しげなものに変化する。喧騒の中、それを感じ取りながらも、俺はやっぱり露台から視線を外せなかった。

 視線の先、皇太子殿下が豪奢な冠を手にしてる。
 歓声が、大きくなった。

 ―――― あァ、何て言うんだろうな。こういうの。

「……リュカ?」

 怪訝そうに名前を呼ぶ声には振り向かず、俺は口を開いた。

「レディ、ちょっとお前、しばらくラズから目ぇ離すな」
「え?」
「できる限りでいい。つか、いっそもうこの後、お前も裏方に回り込んどけ」

 多分、その方がいい。
 できるだけ……ラズから目を離さないように。

 ―――― 何かが、起こる前に。

 歓声が、ひと際大きくなった。
 見上げた先……露台では、ぎこちない動作で身を屈めたラズの頭に、ちょうど皇太子殿下が冠を載せているところだった。
 きらりと、冠に埋め込まれた宝石が陽の光に反射して光る。

 その光景を見ながら、覚えたのは予感だった。

 はっきりしたもんじゃねぇ、水で溶かしたインクみたいな。
 ぼんやりとした、曖昧な、けれど絶対に無視もできないぐらいの、それ。


 あぁ、何でだろな。

 今頃になって、どうしようもなく…………嫌ぁな予感がすんだよ。

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