悪意じゃない。そんな明確な意思は、何ひとつ向けられていない。
ごちゃっとした、色のイメージ。
掴みどころのない、それ。
……オレは、それを知ってると思うんだよね。
夢の中で、聴いたと思った声がある。
起きた時には、微かなイメージしか残ってなかったそれを、もう一度掴もうとした、その時。
はっとして、オレは顔を上げた。
それは、ほとんど反射の行動だった。何か来る、と思ったのと、セレがいつもより随分と厳しい声で「ラズ!」とオレの名前を呼んだのが、ほぼ同時のことで。
見据えた視線の先で、室内の空間が飴細工か何かみたいに、ぐにゃりと歪んだのが見えた。
変化は一瞬だった。
一瞬で、室内の空間が非日常と化す。
ぐにゃりと歪んだ空間は、瞬きの後に闇色に染まっていた。
「えーっと……」
しまった。
オレ今何かリアクション取り損ねた。多分今驚くべきだったよね? いや、多分じゃなくて絶対!
滲むようにして室内の景色を侵食した闇が、大きく揺らいでその色を濃くした。
あ、これ夢の中のイメージと一緒、と直感的に思った。掴みどころのない、ごちゃっとしたイメージ。やっぱりというか何というか、そこからは悪意も何も感じ取れない。そんな明確な意思はない。
だけど。
「ラズ」
今度は、フィルがオレの名前を呼んだ。下がれ、と短く声が告げる。その響きは、いつもよりも数段固さが増していた。さっきのセレの声と、厳しさで言えばどっこいどっこいと言ったところ。
滲み出した、闇色。どちらかと言えば、あれはセレの側に属するものだろう。フィルとは、真逆に位置するもの。
だけど、オレがあの闇色から受けたのは、セレが持ってるそれとは違う印象だった。
セレの闇は、ただ純粋に闇だ。
変な言い方かもしれないけど……うん、そうとしか言い様がないんだよね。ただ、純粋な闇。他の要素は一切存在しない。
だけど、目の前の闇色から受けるのは、それとはまた違う……うーん、何ていうのかな? 色んなものが雑ざり合って、結果的に闇色になった、みたいな。そんな不安定なカンジがした。
悪意じゃない。そんな判り易いものでもない。
ただ酷く ―――― 良くないものであるような、気がした。
フィルもセレも、あれを危険なものと判断したみたいだ。それは声の調子で判る。下がれ、というフィルの言葉も理解出来る。うん、だけどね?
「えーっと……無理、ってか、ちょっと手遅れ?」
緊張感も薄く、オレは告げた。
いやいやいやいや、ごめんて。そもそもちょっといまいち状況が掴み切れてないんだ、オレとしては。……だからすみません、そんなビミョーな視線を寄越すのやめてください二人とも。警戒よりもオレに対する呆れの方が上回っちゃったとか、その事実の方がオレ的に微妙だよ!
って、ごめんね! オレのせいだね!
いや、でもね。手遅れだと思うんだ。
だってあの闇色、今絶対こっち見た。あのカタマリにはもちろん顔なんてものはないから、そんな気がしただけだけど。絶対目が合ったって、今。
―――― こっち見て、にぃっと嗤ったような気がしたんだって。
……うん、絶対オレ認識された。何か嬉しくない方向にしっかりばっちり認識された! ほらほらほらほら、今正に近付いて来ようとしてるし!
ちっ、と低く舌打ちをしたのは、どっちだったのか。
「―――― 面白くないなぁ」
呟いたのは、セレだった。
誰が聴いても、セレが不機嫌だっていうのが一発で判る声音だった。ぶっちゃけ、こっわいです。今セレの表情が見えなくて良かったなぁ、と心底思います。……いやもう、本気で見たくないよ!
冷気! 前方から冷気感じるから! セレの怒りは燃えるんじゃなくて凍る方向に発現される模様です! 寒い!
面白くないなぁ、と呟いたセレは、凍るような感情を纏ったまま、軽く手を横に薙いだ。バシン! と渇いた音がして、こっちへ来ようとしていた闇色が、見えない壁に阻まれたかのように弾かれて僅かに後退する。
「面白くないね。人の領域で好き勝手されるなんて」
絶対零度の声だった。
「しかもお前、今『何』に手を出そうとした……?」
続けられたフィルの声も、絶対零度。
……ってか、今オレ何気なくモノ扱いされなかったか? 『何』に、て。……フィルさん?
オレが微妙なところに引っ掛かってる間にも、二人と闇色の間では着々と緊張状態が築かれていた。相変わらず当事者なのに一番の置いてけぼり状態です、オレ。
判んないことはたくさんあるけど、これだけは判る。
やっぱり、アレは良くないものだ。
フィルもセレも、あの闇色を危険なものと判断した。
向けられてくるのは、悪意でも敵意でもない。だけど確実に、こちらへと手を伸ばしてくるもの。
ごちゃごちゃとした色のカタマリ ―――― 闇色。
それは、例えるなら、まるで『執着』にも似て。
弾かれた闇色は、大きくひとつ揺れた。端っこの方が少しだけ、薄くぼんやりと滲んでる。
「あー、もう。微妙なとこだけど、これどうも俺と同系統の力っぽいなぁ」
「断言は出来ないのか?」
「純粋に闇の力じゃない。何か雑じってる。だけど大元は闇の力。そういう分類かな」
「そうか……」
「今も結構強めに力放ってみたけど、消滅させるどころか弾くのがせいぜい、ってぐらいに威力が削られてるし。俺のより、フィルの力ぶつけた方が効率良さそう」
「了解した」
……いやいやいやいや。
ちょっと待て。ごく自然に物騒な会話を交わすな、二人とも。どうしてそんなに好戦的なの。友好的になれとは言わないけど、何でそんな始めっから思考が殲滅方向?
…………いや、判らなくはないんだけどね? オレもできる限りアレには早いとこお引取り願いたいなぁ、とか思うし。
だから。
仕方ないなぁ、とひとつため息を吐いて、フィルが手のひらに力を集めるよりも前に、オレは呪文<スペル>を紡ぎ出した。
『震え、震え、遥かなる蒼。其は虚ろなる幻。形を持たぬもの。悠久に惑いしもの、そこに集いし力を棄却せよ。―――― 絶えよ、霧幻<ムゲン>』
ふわり、とオレの周囲に白い煙のようなものが渦を巻いた。
煙に見えるそれは、小さな小さな水のカタマリ ―――― 要するに、霧だ。室内の湿度がいっぺんに高くなったのを肌で感じながら、オレはひらりと手のひらを翻す。白い霧は、ゆるやかな速度でもって、闇色を取り巻いた。
呪文<スペル>を紡ぎ終えた後、その効果が出始めたのを確認して、二人がオレの方を振り返る。それにちょっとだけ笑い返して、オレは再び闇色を見やった。
白い霧にぐるりと周囲を取り囲まれた闇色は、それを振り払おうとするかのように一度大きく揺らめいた。不快を示す感情が、何となく伝わってくる。
不快……ではあるだろうなぁ……。だってあの霧は、拒絶の意を宿したものだから。
何の意図を持って、あれがここにやって来たのかは知らない。だけど、良くないものをそのまま黙って見過ごすわけにもいかないのも当然の話で、オレはそういう意志を込めて魔法をぶつけた。
闇色を取り巻く霧は、闇色を拒絶するもの。触れた部分の闇色が、滲むようにして薄くなっている。黒から、灰色へ。そして、更にその色を薄くして。
闇色が、蠢く。
ゆらり、ゆらりと。白い霧に、包まれながら。
その色彩を随分と薄くした闇色は、しばらくは抗うようにゆらゆらと揺らめいていたけど、やがて諦めたみたいにぴたりとその動きを止めた。
じいっと、こっちを見てる。顔も何もないのに、やっぱりそんな風に思った。
じっとこっちを見ながら ―――― 嗤ってる。
そう感じる雰囲気を残したまま、闇色はその色彩をますます薄くした。きっともうすぐ、この空間に存在することも難しくなるだろう。
そう思った、一瞬。
くすり、と落とされたのは、笑い声。
一瞬、精霊の声かと思った。
だって、それぐらいに無邪気で、楽しそうと取れる声だったから。
だけど。
くすくす、くすくす……と、途切れることなく続く笑い声。
違う、と思った。
これは、違う。
声に滲んでるのは、判り辛い、ごちゃごちゃの何か。
―――― ざぁーんねん。
最後に。
幼い少女の声が、そう告げて。
闇色は、室内から完全に姿を消した。
「えええぇっと…………今の何?」
ていうか、何かものすっごい気になる言葉残して消え去りませんでしたかあの闇色。
残念とか……何がどう残念!? 残念じゃなかった場合どうなってたのっ!?
そんな思いも込めつつ呟いた声に返されたのは、
「敵」
……即答かつ断言だよ、オイ。
「セレ、お前ね……」
「その認識で間違ってはいないだろう」
「フィルまで、そういう……」
あ、もう敵認識固定ですか。修正不可?
「アレが何なのか、正直なところ俺にもフィルにもよく判んないけどね」
「とにかく、警戒するに越したことはないな。ラズ、お前も次アレに会ったら、魔法を使うよりも前にまず逃げろ」
「逃げたらまず間違いなくオレは転ぶけど」
逃げるどころか、逃げようと踵を返した時点で転ぶ可能性も大だ。いっそもう威張って言うけどね! そこで納得の表情を浮かべてくれちゃった二人の反応がちょっとどころじゃなく悲しいけどな!
「前言撤回。魔法で応戦しときなさい」
「……そうする」
セレの言葉に、ものすっごく複雑な心境になりながらもこっくりと頷いた。
……で、だ。
結局疑問は残ったまんまなワケですが。
本当に、アレ何だったんだろ……。