Neva Eva

quiet talk 07
 もたらされた知らせに、奥様はその動きを止められました。
 ピタリ、と。普段は絶えず浮かべている柔和な表情さえ形を潜めて、その全てを凍らせてしまわれたかのような無表情。

「あああああああの、お、奥様……?」

 どうかなさいましたか? と問う私の声などまるで届いていないご様子で、奥様はしばし沈黙なされた後に ―――― にっこりと微笑みになられました。

 ええ、それはもうにっこりと。…………にいぃぃぃっこりと!


 ……すみません。どなたか助けて頂けないでしょうか。

 何だか、奥様が怖いのです。






 その日、奥様は珍しいお客様を迎えていらっしゃいました。
 何でも、近くに住むご友人を訪ねていらしたその帰りにこちらへも顔を出されたのだとかで、奥様はそのお客様を手放しで歓迎されていました。

 お客様のお名前は、キーファクロイツ様。
 奥様のお兄様であるところの、ヴァリニス将軍のご長男様です。

 ちなみに、奥様のお名前はティセリアーナ様。
 現在のご家名はオルランジェとなっておりますが、旧姓はヴァリニスとおっしゃるそうです。


 ティセリアーナ・ヴァリニス。

 ええ、“ヴァリニス”。
 ……有名なお名前ですわよね?

 何とウチの奥様は、かの有名な“魔術師の王”、ラズリィ・ヴァリニスの実姉でいらっしゃるのですよ! ホンモノですよ! 最初にそれを聞いた時なんて、私、思わず叫んでしまいましたもの。「嘘っ!?」って。
 今私の目の前には、“魔術師の王”の姉と甥が一緒にいらっしゃるわけです。私にはいい加減見慣れた光景でもあるわけですけれども、世間様的には珍しいと言える光景なのではないかと思います。…………奥様が未だにものすごい笑顔なのも含めると、更に貴重な光景ですわね。

「えぇと……お、叔母上」
「なにかしら?」
「私、何か悪いことでも言いましたか?」
「……いいえ?」

 にこにこにっこり、と凄みを増して向けられた笑顔に、キーファクロイツ様がたじろがれました。
 ……どう見ても、奥様優勢。キーファクロイツ様、頑張ってくださいませ。

 いいえ、と微妙な疑問形ながらも放たれた奥様の否定の言葉を、まさか私が嘘だとツッコむわけにもいかず、とりあえず現実逃避的に淹れてみたお茶なんぞを奥様とキーファクロイツ様の前に差し出してみました。……奥様のありがとう、という輝かんばかりの笑顔から顔を背けたくなったのは初めてです。私、退出しては駄目なんでしょうか? あ、駄目ですか? 何故に。

 お怒りなのだと、さすがにどんな鈍い人間にでも判る状態です。
 ましてや、奥様の目の前にいらっしゃるのはキーファクロイツ様。この方は普通よりもかなり敏い部類に入るお方ですし、今のこの状態はかなりお辛いんじゃないかと思ったりするのですが……、

「…………叔母上。すみませんとりあえず何にお怒りなのか訊いてもよろしいでしょうか?」

 はい、お辛いのですね! 台詞が今ひと息でした。すごいです。

 紅茶のカップに口を付け、ほぅ……と息を吐き出した奥様は、カップを手にしたまま上品に小首を傾げられました。
 そして。

「いえ、あら、ごめんなさい? 別にね、貴方に怒っていたわけではないのよ……?」

 それは、つまりあれですか、奥様。
 キーファクロイツ様はとばっちりですか。

「お茶のおかわりを貰えるかしら? ルチア」

 にこり、と先ほどよりは幾分迫力の和らいだ微笑を浮かべながら差し出されたカップを受け取って、私はご要望通りにお茶のおかわりを注ぎました。ついでに、キーファクロイツ様のカップにもお茶を注ぎ足しておきましょう。せめてもの慰めです。
 きちんと御礼を言ってカップを受け取った奥様は、それに優雅に口を付けながら、居心地悪そうに身動ぎするキーファクロイツ様に視線を戻されました。

「つい昨日のことなのよねぇ……」
「はい?」
「『学院』からの通達が、ここに届いたの」
「あぁ……」

 そのことですか、とキーファクロイツ様が相槌を打たれました。


 “魔術師の王”の帰還。

 そんな吃驚な知らせがこの街に届いたのは、確かに奥様の仰る通り、昨日のことでした。
 良く晴れた午後、『学院』から正式に通知されたその知らせに、奥様は最初何を聞いたのかよく判らない、というような表情をされていました。嬉しいとも、悲しいとも、吃驚したとも違う……いえ、むしろそれを全部ひっくるめたみたいな表情をして、

「ラズ、が……? 帰ってきた、の……?」

 呆然とした奥様の呟きを ―――― その響きを。
 私はこの先、ずうっと忘れることはないでしょう。

 王の帰還は、確かに私にとっても吃驚する出来事ではあったのですけれども、奥様にとってはそれだけではなかったのだと、その時に思い知りました。
 そうですね。きっと私は、何も判ってなどいなかったのです。

 “魔術師の王”、ラズリィ・ヴァリニス。
 誰もがその名を知る、偉大な王様。けれど、奥様にとって彼の人は、そんな偶像じみた存在などではなく、ただただ大切な弟君で肉親であったのだと。
 知っていただけで、何ひとつ理解などしていなかったのですね。お恥ずかしい話ですけれど。

 それが、昨日のことで。
 おかげで今日は、お屋敷の中どころか街中がどこか浮き足立っておりますよ。“大崩壊”を知る大人たちは、どこか興奮気味にこの話題を持ち出し。“大崩壊”自体は知らなくとも、“魔術師の王”のお話をお伽噺として聞いて育った子供たちも興奮したように喋り合い。結果、街はちょっとしたお祭り騒ぎです。
 私たちも昨晩は奥様達とご一緒にちょっとしたお祝いの席を設けまして、そこで振舞われたアルコールに、今日は二日酔いでふらふらしている人間が少しばかり多いのは、ちょっとしたご愛嬌というものです。

 ……いえ、少し話が逸れてしまいましたね。
 ともかく、私たちが王の帰還を知ったのは昨日のことで。そしてまた今日、キーファクロイツ様が吃驚な知らせを持っていらして…………って、あら?
 …………あらあら? 何だか私、とっても今更なことに気が付きました。むしろ、今まで気が付かなかった自分に吃驚です。

 そろり……と奥様の方へ視線を向ければ、奥様は相変わらずにこにこと妙な迫力を纏った笑みを浮かべておられて。
 …………えぇと、はい。奥様のお怒りの理由、何だか判っちゃったかもしれません。

 奥様が、軽く首を傾げて口を開かれました。

「そう、昨日なのよ」
「はぁ……」
「こことグランディスタだったら、王都からの情報が伝わってくる速度にそんなに差はないわよね?」
「そう、ですね……?」

 キーファクロイツ様の表情が、怪訝なものから段々と「……あれ?」というようなものになって参りました。キーファクロイツ様も鈍いお方ではございません。段々とお顔の色が悪くなっていらっしゃるような気がするのは、私の気のせいではないでしょう。きっと、奥様のお怒りの原因に思い当たられたのではないかと。

「そう、そうよねぇ。そのはずだわ。お兄様は王都の方にいらっしゃるから、私たちよりも早く情報が届くのも不思議ではないけれど……グランディスタにいる貴方たちと私とでは、条件はほぼ一緒よね?」
「ええ……はい」
「私は、昨日初めてラズが帰って来たのだという知らせを受けたのだけれど」
「……」
「―――― 貴方は、そうじゃなかったのね……?」
「…………」

 ああ、そうです。考えてみれば、これほど明白なものはありません。
 理由はそれです。それしかありません。

 叔父上にお会いしました ―――― と。
 キーファクロイツ様はそう告げられました。

 奥様が動きを止められたのは、明らかにそれが原因です。今、こんな迫力のある笑みを浮かべていらっしゃるのも、とてもとても明らかにそれが原因です。
 …………あの、すみません。本気でどなたか助けて頂けないでしょうか。私以上に、キーファクロイツ様がそう思っていそうですけれども。

「いつ、あの子に会ったの?」
「……何ヶ月か前の、ことだったかと」
「…………そう」
「あ、あの、叔母上。父上からは、何も……?」
「あら、やっぱり兄様もあの子に会っていたのね。数ヶ月も前に?」

 今、確実に墓穴を掘られましたわね、キーファクロイツ様。

 えぇと、僭越ながら話を要約しますと。
 “魔術師の王”は、王都に戻るよりも先にまず御自分の生家の方へ帰られたのですね。で、そこでヴァリニス将軍やそのご子息に会われた、と。
 ……それが、数ヶ月前の話……?

「あの、まさか……父上は、何も……?」
「ええ。まったくもって何ひとつ連絡さえも寄越して貰った覚えがないわ?」

 何てことを、ヴァリニス将軍。

「いや、あの、それは、何と言うか……」
「キーファ」

 にこり、と微笑んで、奥様がカップを置かれました。カチャリ、と陶器が触れ合う僅かな音がします。

「伝言を、お願いできるかしら?」

 有無を言わせぬ口調で、奥様が言いました。
 こういう時の答えなんて、決まりきってますよね。

「……何なりと」

 そうですね。
 それがきっと、正しいです。

 ありがとう、と微笑んで奥様は再び口を開かれました。

「あの子の帰還の式典に併せて、私も王都へ行こうと思っているの。兄様も式典には警備か何かで関わられるわよね?」
「ええ……。そう、聞いていますが……」
「それじゃ、できるだけ早い時期にお時間頂けるように、兄様に伝言をお願いできるかしら?」

 にこにこにっこり。
 奥様は、見た目はとても可愛らしく ―――― けれど、雰囲気は全然、ちっとも、まったくそれに伴っていない表情で微笑まれました。何でしょう、この迫力。私、奥様の新しい一面を発見した気分ですよ。

 ともあれ、こんな時に返せる言葉も決まりきっていますよね。

「……了解、しました」

 ……ですよねー。

 微笑む奥様が何だか怖くて、やっぱりちょっと本気で誰か助けてくれないものだろうかなんて、現実逃避気味に思ったりするんですけれども。それよりも、まず。
 今は、ヴァリニス将軍の無事でも祈っておくことにしましょうか。

 奥様が、本気でお怒りです。
 人間笑っている時の方が怖い、なんてこともあるんですね。初めて知りました。


 それは、“魔術師の王”が帰還した、と。
 そんな知らせがもたらされた次の日のこと。


 式典が開催されるまで、あと僅か。

 ところで、なし崩し的に奥様の王都行きが決定しちゃってるんですけれども…………良いんでしょうか?

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