最初に興味を持ったのは、その赤い瞳。
硝子玉みたいに大きなその瞳が気になった。
ただ、それだけ。
* * * * * * * *
廊下の角でぶつかって、ものの見事に転んだ子供は、既に涙目だった。
……まぁ、そうだろうね。ゴン! とかすごい音してたし。確実に頭打ったでしょ、君。
別にそのまま無視したって良かった。ぶつかったのだって、僕のせいというよりは子供の前方不注意が原因だし。
ううう……と涙目になりながら小さな手で頭をさすっていた子供は、手を貸すわけでもなく無感動にそれを眺めてた僕の視線に気付いて、「あ」という表情になると慌ててごめんなさい! と頭を下げた。
で、今度はそのまま前のめりに転んだ。…………何がやりたいの、子供。
さすがにここまでくると、無視して立ち去ろうとする気は失せた。ううう……と呻きながら、今度は額を押さえている子供をまじまじと見やる。
十歳前後ぐらいの子供。多分、この前入ったばかりの新入生だな、とあたりをつける。それにしては、ちょっと幼すぎるような気もするけど。
…………ていうか、何で全身泥だらけなの、この子供。今気付いたけど。
全身泥まみれ、しかも気のせいでなければ頭のてっぺんからつま先までぐっしょりと濡れそぼった子供は、僕を見上げてまた「あ」と声を上げた。
「ご、ごめ……」
「―――― ストップ。また転ぶよ」
学習能力ないだろう、君。まず間違いなく。
再び勢い余って前のめりになった子供の襟首を掴まえて、僕は呆れのため息を吐いた。子供はわたわたと手足を動かしている。……首絞まっても知らないからね。
「……で? 何なの、君は」
「ふぇ? 名前? ラズだよ」
「聞いてないよ」
何で今の流れで名前とか聞いたことになってるの。わけ判んない。
子供はきょとんと赤い瞳を瞬かせてる。……大きい目。零れ落ちそうだと、そんな馬鹿なことを考えた。
「あ! ごめんなさい、お兄ちゃん! それ、オレ直す!」
「は? 何……あぁ、これか」
見下ろせば、ちょうど腹部の辺りにべっとりと茶色い染みが広がっている。考えるまでもない、先刻子供とぶつかった時に出来たものだ。だって全身泥まみれだし、この子供。染みというか、顔拓とか取れてるような気がするよね、これ。
というか、直すって、どうやって……、
「?」
一瞬、風が吹いた。
染みに触れる子供の指先に、不可思議な力を感じる。
そこにあるのは、馴染みのある水の力と ―――― 風の力。
ざわりと、した。
それは、畏怖だったのか、それともそれ以外の何かだったのか。
後から考えてみても判らない。ただ、ひどく自然な力の流れを感じた、と思った次の瞬間には、僕の服にべったりと染み付いていた汚れは綺麗になくなっていた。
……え? 何、これ。
らしくもなく呆然とした僕の様子に気付いた風もなく、子供はよし! と満足そうに笑うとぱっと手を離した。
「じゃあね、お兄ちゃん! ホントにごめんなさいでした!」
そして、そのままにっこりとした笑顔を浮かべた子供は、言うが早いか踵を返して走り出した。
…………本当に、何、今の……。
感じたのは、水と風の力。
あと、ほんの僅かに感じた、よく判らない力。
細かい構成は判らない。
どんなモノなのか予想できないワケじゃないけど、そんな一朝一夕に判るものでも実践できるものでもないと思う。一度に二系統以上の力を同時に使うとか、常識外れもいいところだ。目の前で実際に使用されたのを見たんじゃなければ、何の冗談かと言うところだよ。
と、いうかさ。
ものすごい高等な技術使って、ものすごい庶民的なことやったよね、今。
要するに、染み抜きでしょ。今あの子供がやったのって。
……どこの主婦かっていう。
「……わけ判んない」
綺麗に ―――― 下手すると、汚れが付く前よりも余程綺麗になった自分の服を見て、僕はため息を吐いた。
本当に、わけが判らない。
こんな芸当が出来るのなら、僕の服よりも先にまず自分の恰好をどうにかしろと言ってやりたくなる。何せ、全身泥まみれのびしょ濡れだ。そっちをどうにかする方が先だろうに……、と思った僕の視線の先で、子供が再びべしゃりと転んでいるのが見えた。
「…………」
あぁ、成程。
やっても無駄、ということか。
それから、月日は流れて。
子供は成長し、“魔術師の王”と呼ばれるようになった。
―――― 僕からしてみれば、本当に笑い話でしかない。
「“魔術師の王”の実態なんて、必要以上に転びやすいだけのどこにでもいるような子供だし、王の最強使い魔なんて、突き詰めればただの過保護な保護者でしょ」
世間の認識と実態の差が酷すぎるという話。
ラズの生活能力とかその辺、全部魔法関係の方に偏ってて、運動神経は面白いぐらいにマイナスだし。
使い魔たちのラズへの過保護ぶりは傍で見てて呆れるレベルだけど、あの子供に限ってはあれで良いっていうか、あれでも足りないっていうか……。
何にせよ酷い。
「え、何だイキナリその暴言」
「暴言じゃなくて事実。判ってる? そこで今正に転んでる君と、普通にそれを助け起こそうとしてる使い魔のことを端的に言い表してると思うんだけど」
まぁ、助け起こしてるのは光のだけで、闇のの方はけらけらと楽しそうに笑ってるけどね。でも、実際ラズに危険が及べば、どっちかというと光のよりも闇のの方が素早く動く。それを知ってるから、遠慮なく揶揄した。
ラズがうっと言葉に詰まる。……どうでもいいけど、早く起きれば? 手を貸して貰ってるんだから。
机に頬杖を付いて、目の前で懲りもせずにころころと転んでいる子供を見下ろした。
ちなみに今日 ―――― 何回目の転倒だっけ? 数えるのも馬鹿らしくなるぐらい転んでるのは確かだけど。
「とりあえず…………式典の手順とか覚える前に、正装服の裾踏んで転ばないようにする特訓がいるんじゃないの?」
「あはは~、言えてるー」
「…………ラズにそれは不可能だと思うんだが」
「ちょ、そこォッ!? フィルも不可能とか言わない! べ、別にいざとなったら正装服じゃなくてもいいじゃん!」
「ただでさえない威厳が、限りなくゼロに近付いてもいいって言うんなら、別に普段着で式典に出ようが何をしようが止めないけどね」
「ううううう……」
正直、かつ遠慮なく意見を述べたら、ラズがその場で撃沈した。
反論があれば受け付けるよ、一応。ないだろうけどね。
月日が経って、子供は“魔術師の王”と呼ばれるようになった。
その間、行方不明の期間は、三十年ほど。
人間に比べれば寿命の長い僕にしたって、それは決して短くはない年月で。
ある日ひょっこりと帰って来た子供は、良くも悪くも何も変わっていなかった。
そのことに、癪だけど安堵のような気持ちを覚えているのも事実だったりする。本当に、癪だけど。
最初の出会いは、偶然。
でもアレがなかったら、僕はラズに直接的な興味を持つことはなかったと思う。遅かれ早かれ、子供の噂は耳にすることもあっただろう。だけどそれは、ただの情報でしかない。
というか、他人の噂話にいちいち耳を傾けるかどうかっていうこと自体、正直な話怪しい。仮に噂話を聞いたとして、その後実際にラズに会いに行こうとするか、って話になると、もっと怪しい。僕は割と自分というものを知っている。
だから、さ。本当に、癪な話なんだけど。
あの日、あの時、あの場所で。
ぶつかっておいて良かったかな、と。
そんなことを、思った。
多分、あの子供に関わらなかった場合、随分とその後の生活が味気なかっただろうから。
そんなことを考えていた僕の思考を、現実へと引き戻したのは、びたんっ! というある意味聞きなれた音だった。
起き上がって十歩歩いたところで、再び服の裾を踏んで見事に素っ転んだ子供の後頭部を見下ろしてため息を吐く。
「……もうさ、諦めた方が早いって言わない?」
「言うな」
「即答!?」
「言うねぇ」
「更に同意!?」
うるさいよ、そこの子供。
まぁこの状況も、面白いといえば面白い。
僕は、この子供に式典の手順とかその辺りを教え込むように言われてたはずなんだけど……。
「笑い事じゃなく、まずは正装服着て歩く練習からだね。君は」
「ううう……、はい」
とりあえず、世間の人間はこれに夢を見るのはやめた方がいいと思う。