カラリ、カラリと、回る歯車。
それを止める術は ――――……?
夜、夕刻と呼ぶには既に遅い時間帯。
持ち帰り自室で目を通していた書類から顔を上げれば、周囲は薄闇に包まれつつあった。……しまった。そろそろ灯りを付けないと、家人から小言を言われるな。
そんなことを思いながら立ち上がれば、長時間同じ体勢でいたせいだろう、凝り固まっていた身体が鈍い音をたてた。無意識に右手で左の肩を揉んでしまう。硬く張った筋肉の感触に、苦笑を漏らした。
最近、少し働きすぎかもしれない、という自覚はある。
職種の関係上、王都でこなさなければならない仕事の方が多く、自宅にも満足に帰れない日々が続いている。本当ならもうひと月ぐらいは帰宅できないと思っていたのだが、先の仕事が思っていたよりも早くに片付き、それならばと多少の無理を押して帰宅をした。後処理の書類は多々持たされる羽目になったが、帰れないよりは大分マシだろう。
何より、今回はこの時期に帰ってこれたからこそ得られたものもある。
帰ってきたから、会えた。
ここで。この場所で。
三十年前、見失ってしまったものに。
“大崩壊”
後にそう名付けられたあの災害で、失くしたものは多くある。
それは、同僚であったり、友人であったり ―――― 家族であったり。
“大崩壊”が終わったその時に、五人いたはずの家族は私と妹の二人だけになっていた。
始まりの場所で、あまりにも呆気なく生涯の幕を下ろした両親。
行って来ます、といつもと同じような笑顔でそう言って旅立った弟。
“大崩壊”の終結などという偉業を成し遂げた弟は、そのまま帰って来なかった。
そのまま、三十年。
その期間が長かったのか短かったのか、よく判らない。
生死も判らない人間を変わらぬ気持ちで待ち続けるには長く、傷が癒えるには短すぎた。鮮明に残っているものもあれば、年月と共に風化してしまったものもある。
鮮明に残っているのは、あの日残された『行って来ます』の言葉。
いつもと同じ笑顔。
引き止められなかった己の弱さと、痛いぐらいに握り込んだてのひら。
後悔していないと言えば、嘘になる。もっと他に方法があったんじゃないかと、今でも思う。
「魔法使いは総力をもってあの“異変”に対処すべし」という『学院』からの通達に頷き、立ち向かうことを決めたあの子供は、あの時たったの十六歳だったのに。
その背にすべてを背負わせた。それを後悔していないのだと言えば嘘になる。
三十年。
言葉すれば、それだけでしかない。だが、『それだけ』がどんなに重いものなのかも知っている。
人の記憶が薄れていくには十分な時間で、けれどすべて忘れてしまうには不十分な時間だ。どうしても後悔は残り、やがて傷となる。それを自覚しながらもどうすることもできず、そんな己に苦笑さえしていた矢先の
――――― この帰還だ。
正直、最初は自分の正気を疑った。
あの時とまるで変わらぬ姿で帰ってきた弟に、とうとう自分に都合の良い幻まで見るようになったのかと。
けれど、咄嗟に抱き締めた身体は確かな存在感を持っていて。あまりにも変わらぬ言動に、納得せざるを得なかった。
あぁ……これは、あの時自分が見失ってしまったもの。
―――― ラズリィ、だ。
その時の気持ちを何と言い表せばいいのか、未だによく判らない。ただ、何かに感謝するように、目の前の存在を抱き締めた。
三十年前に残された、『行って来ます』の言葉。
おかえり、と。ようやく言えた言葉があった。
突然のラズリィの帰還。それが、つい三日前の話だ。
信じがたい事実の数々に、子供達は混乱気味なのが見て取れる。特に下の子供はその傾向が顕著だ。…………まぁ、無理の無い話ではあると思う。と、同時に、『ラズリィ』という人間を知っていれば、この事態もすんなりと受け入れられてしまうその事実がどうかと思う。
何と言うか、我が弟ながら突拍子も無い話には事欠かない、常識の外れた子供だったから……まぁこの程度なら許容範囲かと思うのだが。…………その事実がどうなんだという話だな。
唐突に動き出した時間。
三十年前に止まっていた時間が動き出す。その感覚はくすぐったくもあり、それ以上に嬉しくもあった。
ここ数日のことを思い出し、自然口元を緩めながら部屋に灯りをともした。橙色の暖かい光に、ひとつ息を吐く。机に戻り、さてもう一仕事かと書類を取り上げたところでコンコンと控えめなノックの音がした。
「入れ」 短く言葉を返せば、一礼と共に年嵩の家人が入ってくる。
「失礼致します。旦那様にお客様が見えられているのですが……」
「客?」
訊き返した私に、家人ははいと返事を返す。
時刻はもう夕刻を幾許か過ぎた頃。事前の約束があれば話は別だが、他家を訪問するにはいささか遅い時間だと言ってもいい。
当然そんな約束をした覚えも無いので訝しげに眉を寄せた私に、家人は声を潜めて告げた。
「イーグラード卿がいらっしゃっています。折り入ってお話があるとかで……」
告げられた名前に、今度ははっきりと眉を顰めた。我ながら正直な反応だと思う。
家人の言うイーグラード卿というのは、まず間違いなくイーグラード家現当主、ロズウェル・イーグラードのことだろう。個人的な感情を率直に述べるならば、出来得る限りお近付きにはなりたくはない人種だ。
イーグラード家が王国でも屈指の名家であるのは事実だが、そういう輩にありがちな選民思想に染まっているのもまた事実だ。ラズリィによって一息に有名になったヴァリニスの名ではあるが、元の家柄的にはあくまでも中流、イーグラード家から見れば、完全に成り上がりでしかない。私自身が将軍職に就けたのも、運が左右した部分が大きい。その自覚はある。
イーグラードの者から見れば、たいしたことのない家柄のものが将軍の位に就いてるのが我慢できないのだろう。―――― 自分がその地位に就いていないのだから、尚更。
というわけで、当然のことながらイーグラードとは折り合いが良くない。はっきり言えば、悪い。
そんな人間の突然の訪問、しかも折り入って話があるという。この場合、何かあると思うのが普通だろう。
ものすごくはっきり言って気は進まないが、かと言ってこのまま何事もなかったかのように追い返せる相手でもない。諦めて、手にしていた書類をバサリと机に置いた。ひとつため息を吐く。
「……すぐに行く。客間にお通ししろ」
「かしこまりました」
一礼して去っていく家人の背中を見送って、もう一度ため息を吐いた。
面倒なことはさっさと終わらせてしまうに限る。そう思い軽く首を振って気分を切り替えた後、ゆっくりと私も自室を後にした。
動き出す、何か。
張り巡らされた網は、そこにある。
失礼にならない程度に身形を整え、客室に顔を出せば、想像通りの顔がそこにはあった。…………今一度正直な心境を述べるのであれば、あまり休暇中に見たい顔ではない。
ロズウェル・イーグラード。
名門イーグラード家の現当主である彼は、確か私とそう歳は変わらないはずだ。軍職に就いている人間にしては若干小柄な体躯は、どちらかと言えば文官のような印象を与える。
姿を見せた私に、イーグラードは張り付けたような笑みを浮かべた。瞳はまったく笑っていない。口元だけを吊り上げた ―――― どこか相手に不快感を与える笑みだと思う。まぁ、こちらも慣れたものなので、そんな内心を表情に出すようなことはしないが。
「夜分遅くに申し訳ありませんな、ヴァリニス卿」
「いえ、お気になさらず……」
言葉を返しながらふと気になったのは、イーグラードとは別の存在 ―――― 彼の背後に控える、二十代半ばと思わしき青年だった。
最初はイーグラードの侍従かと思ったのだが、どうも雰囲気がそれにそぐわない。仕える立場ではあるのだろうが、そのために教育された人間ではないような印象を受ける。
私の視線に気付いた青年は、へらりとした気の抜けるような笑みをこちらへと向けてきた。それに少しだけ面食らう。イーグラードとこの青年の接点が特にこれといって見付けられずに、内心で首を傾げた。
「それで、お話というのは?」
さっさと終わらせよう、それを合言葉にイーグラードの向側に腰を下ろしながら話を切り出す。
「おお、そうでしたな。ヴァリニス卿はお忙しい。お時間を取らせてしまっては申し訳ないですから、手短に申し上げましょう」
張り付けたような笑みを浮かべたまま、イーグラードは持って回ったような言い回しでぐいっと身を乗り出してきた。少しばかり眉を寄せた私に気付いた様子もなく、更に言葉を続ける。
―――― 何かが、引っ掛かった。
「回りくどいのは苦手ですので、率直に申し上げましょう」
私を見据えて、イーグラードは笑みを深くした。
回りくどいのは私も苦手とするところなので、その内容自体に異論はないが、いつもいつも遠回しに嫌味を言うのを日課にしているような人間が一体何を言うかと、内心で少し呆れながら先を促す。
イーグラードが笑う。
「ヴァリニス卿には、将軍の地位を退いて頂きたい」
続けられた言葉を理解するまでに、少しばかり時間を要した。
正確に言えば、言葉ではなくその意味を理解するまでに時間がかかったのだ。理解した瞬間、そのあまりの馬鹿馬鹿しさに呆れた。
「……ご冗談を」
いきなり何を言い出すのかと、そんな思いを滲ませた声でそう返せば、いやいや……と芝居がかった仕草で首を振られる。
「冗談を言っているつもりはありませんよ、ヴァリニス卿。なに、そう難しいことではありますまい? 一身上の都合で職を辞す者もいない訳ではないですし」
「何を……」
「そう、例えば ―――― 病気がちの奥方の療養に付き添うため……などといった理由であれば、むしろ美談で通るのではありませんかな?」
その瞬間。
何かが、カチリと嵌まった音がした。
最初に引っ掛かった、何か。
その答えが、今目の前にあることを直感的に感じ取った。自然、相手を見やる視線にも力がこもる。人に不快感を与える、そんな笑みを張り付けたままこちらを見るイーグラードを真っ直ぐに見返した。
「どういう、意味でしょうか?」
「おや! これは慧眼と名高いヴァリニス卿らしくもない。私の言うことが本当に理解できないとでも?」
わざとらしさもここまで徹底されれば…………やはり不快感しか煽らないな。
今度ははっきりと眉を顰めた私に、イーグラードは笑った。先ほどまでの張り付いた笑みではない、愉悦を滲ませた笑み。人を見下した笑い方。自分が優位に立っていることを確信している人間がよくしている表情だと、そんなことを思う。
勝ちを確信しているその態度が何を示すのか ―――― わざわざ問うまでもない。
「そうそう……最近、奥方の容態は如何ですかな?」
駄目押しのように、イーグラードが訊いた。
相手へと固定した視線を、すっと細める。笑みを崩さずこちらを見るイーグラードの後ろで、青年が「おー、コワ……」と小さく呟いたのが聴こえた。
答えない私に、イーグラードが尚も笑う。
「私ならば、奥方を助けて差し上げることも可能ですが?」
如何ですか? と問う声。
「……その代わりに、将軍職を退け ―――― と?」
「交換条件ですよ。妥当なところでしょう?」
決して崩れることのない笑みから、先に視線を外したのは私の方だった。
視線を手元に落とす。持ち上げた右手で顔を覆った。
「何が、妥当だ。…………あれに訳の判らない魔法を掛けたのも、お前だろうに」
手のひらで視界を閉ざす。
訪れた暗闇の向こうで、「あれ?」と気の抜けたような声がした。
「あっれー? 何かバレちゃってますよ、御主人ー」
「うるさい! お前は黙っていろ!」
後ろに控える青年を一喝したイーグラードが、気を取り直すように咳払いをして口を開く。
「まさかそれに気付かれているとは思いませんでしたが……まぁ、いいでしょう。どうせ気付いたところで、貴方には何もできない」
視界を遮っていても判る、強い愉悦を含んだ口調。
何もできないと、言う声。
「…………」
確かに、それは事実だろう。事実でしかない。私に出来ることは、何もない。
手のひらの下で、瞳を閉ざす。
イーグラードが将軍位を欲していることを、知っていた。現在、王国の将軍の席はすべて埋まっている。空きができない限りは、イーグラードの望みが叶うことはない。
だとすれば、どうすればいいか。……考えた結果が、これなのだろう。
「如何なさいますか? ヴァリニス卿」
重ねて問う声が、嘲笑っていた。
脳裏にエンジュの姿が浮かぶ。 たびたび体調を崩すようになった、妻の姿。医者も原因が判らないと、困惑の表情を見せていた。
原因の特定できない病。
イーグラードの笑み。
あぁ、すべてはここに繋がっていたのかと、理解した。
理解したその瞬間に ―――― 笑いがこみ上げて来た。
「……ヴァリニス卿?」
くつくつと肩を震わせて笑い出した私に、イーグラードが訝しげな声を上げる。
笑いは止まらない。視界を遮っていた手を外して、瞳を開いた。はっきりとした視界の先で、イーグラードと青年が揃って訝しげな表情をしていて、それがまた笑いを誘う。
「いや、失礼。考えてみれば、これ程おかしいことはないと思ってね」
くつくつと堪え切れなかった笑いを漏らしながら言葉を紡ぐ。
「よりにもよって……、よくぞこのタイミングで事を起こしてくれたものだ。―――― いっそ感謝するよ」
そう。本当に、よりにもよって、だ。こちらからすれば既に笑い話でしかない。
私にできることは何もない。それは確かに事実だ。認めざるを得ない。
けれど、今。何とかできるものが、私の傍にいる。
その強運を噛み締めて、笑った。
視線の先には、訳が判らないという表情をしたイーグラードの姿。
さぁ、お前の優位は既に揺らいだ。お前はそうと知らぬうちに、行き止まりの方向へと己自身を導いた。
浮かび上がる感情そのままに、ただ笑った。
不運だったと、思うは容易い。私にとっては強運と呼んで差し支えない、それ。
よりにもよって、と思う。
よくぞ、と思う。
お前達は、確かに自分の手で今この時を引き当てた。
彼らが、己の運の悪さをしっかりと実感するのは ―――― この後すぐの話だろう。
その事実に、もう一度ただ笑ってみせた。