Neva Eva

幸せのカタチ 05
 覚えているのは、あの時の気持ち。


 ―――― あのひとたちの、笑顔。







「―――― あ?」

 扉を開けたその先、そこに広がっていた光景は、多分一般的に見れば何のことはない、ごく普通の光景なんだろうとは思う。
 設えられたソファーに腰掛けた金髪と黒髪。客室でくつろいでいる客人の構図だ。何ら不自然ではない。当たり前すぎる光景だ。

 ……が、ここに一人『足りない』というその事実が、ありふれた光景をある筈がない、というかありえない光景へと変質させている。いや、だって…………ありえないだろう、これは。
 一応ぐるりと室内を見回して、やっぱりもう一人の姿がないということを確認した後、問い掛けのため僕は口を開いた。

「……あいつは?」

 いないのか? と問えば、気を利かせた家人が出したらしい紅茶に口をつけていた黒髪 ―――― セレが軽く首を傾げてみせた。

「あいつ、って、ラズのこと?」
「他に誰がいる」

 今この状態で、お前達に所在を尋ねる相手なんて思いっきり限られてると思うんだが、と言えば、それもそうだねー、とあっさりとした同意が返って来た。……じゃ、訊くなよ。
 再び紅茶のカップに口を付ける黒髪と向かい合う位置に座っていた金髪のフィルが、手にしていた本のページをぱらり、と捲る。その本はどこから調達したものなんだか……と思ったその時、手元に視線を落としたままの体勢で、金髪が口を開いた。

「外出中だ」
「……は?」

 唐突すぎて、意味を理解するまでにちょっと間が空いたが…………ちょっと待て。
 何か今、ものすごく珍妙なことを聞いたような気がするんだが。

「……外出?」
「そー。本人の希望でね」
「……あいつが?」
「他に誰がいる」

 先刻、僕が言った台詞をそのまま返された。
 ……が、ちょっと待て。

「…………外出?」

 もう一度、呟く。
 本気でちょっと待て。台詞はまったく同じでも、それで肯定される内容が大違いだぞ!?

 あいつは外出している、と金髪が言った。
 が、今現在、この客室でくつろいでいる約二名。イコール……、

「まさか一人で外出させたのか!? あれを!?」

 ただ歩く、という行為さえ満足に出来ない、運動神経皆無のあれを!? 家の中ですら迷子になってた、破壊的方向音痴でもあるあれを!?

「…………どんな自殺行為だ、それは……」

 思わず、そんな言葉が口を突いて出た。

 というか、死ぬんじゃないかそれ。本当に。冗談抜きで。
 普通なら、何を馬鹿な、と笑い飛ばして終わりなんだが、対象をあいつに限定する場合、冗談が冗談では終わらない。むしろ、現実味がありすぎて嫌だと思う。
 事実の方が、まるで冗談のような出来なのはどうなんだ……。常人相手なら、こんな心配自体不要なはずなんだがな!

 紅茶のカップを置いた黒髪が爆笑した。

「あっはははは! 弟くん、言う言う」
「まぁ……、認識的には正しいな」

 あくまでも淡々と金髪が同意を返す。落ち着いてる場合か!

「本気で一人なのか?」
「んー……、微妙?」
「は?」
「厳密に言うと、まるっきり一人ってわけでもないというかー」
「保険は一応掛けてある」

 ぱらり、と金髪の手がまたページを捲った。

「『保険』……?」

 首を傾げた僕に、金髪がやっぱり手元の本に視線を落としたまま口を開いた。

「精霊を付けてある」
「その辺にいる精霊に頼んだんだよ。『ちょっとラズ見張っておいてー』って。何か起こったらすぐに知らせてくれるように」
「あぁ……」

 ……成程。それで『微妙』、か。
 ………………確かに微妙だな。何がって、お前達のその過保護ぶりが。

 ぱらり、とまたページを捲る音。
 その本のタイトルを見て、僕は何となく脱力した。一体さっきから何の本を読んでいるのかと思ったら……。

「……お前、造園の本なんて読んでどうする気だ……」

 ウチの庭の造園でも始める気か?
 確かに最近、魔法教室をそこで開いて、なおかつ教材として庭にあるものを有効活用しまくってるせいで、時として季節感皆無の庭になりつつあるが。……その辺の修正でもするのか?

「気が紛れれば何でもいい」

 淡々と金髪が答えた。
 ……紛れるのか? というか、紛らわさないとやってられないと暗に言ってるのか? 黒髪が、再び紅茶のカップを持ち上げて笑う。

「まぁねぇ……、あの子を一人で出歩かせるのがどれだけ危険なことなのかなんて、俺達の方が知ってるけど……」
「だったら付いて行けば良かっただろう」

 というかむしろ、付いて行かなくてどうする。あの運動神経皆無に。普通に死ぬぞ、あれは。
 きっぱりと言い放った僕に、黒髪はんー……と感情の読めない笑みを浮かべて、紅茶をひと口啜った。

「そうしたいのは、山々だったんだけどねー……」
「そうするべきではない、と判断した」
「?」

 そうするべきじゃない、というのは、奇妙な言い回しだと思う。
 一人にするのが危険だと知っているのに、そうするのが妥当だと言っているような、少しの矛盾。

「そもそもあいつは何をしに出掛けたんだ?」

 そういえば肝心なことを訊いていなかった。
 そう思い口にした問いに、金髪がそこで初めて顔を上げた。黒髪と一瞬顔を見合わせる。  少しの間を置いて、黒髪がゆっくりとその答えを口にした。


「―――― お墓参り」














   * * * * * * * *

 ざぁっと吹き抜けて行った風に強い潮の香を感じ取って、オレは僅かに瞳を細めた。

「おー、海が見える……」

 街の高台にあたるこの位置からだと、南側に広がる海がよく見える。遮るものも何もないから海からの風が直接吹き付けて、街の中にいるよりも潮の香りがはっきりと強い。
 ここって、家から歩いてだいたい二十分ぐらいの距離だけど……何か同じ街の中とは思えないなぁ……。ていうかオレ、ここに着くまで何でか一時間とか掛かったけどね! 原因は察して!
 ちなみに! ここに辿り着くまでに、転び掛けること十数回、そのうち実際に転んだのが五回、人にぶつかったのが数知れず! …………周囲に迷惑掛けまくりでごめんなさい! どうして街の中移動するだけでここまでの記録を作るかなオレぇっ!
 深刻な怪我がなかったのがせめてもの救いだと思います。せっかく順調に治り掛けてる足をまた悪化させたとかそんなことになったらシャレにもなりません。…………いや、それを素でやっちゃうのがオレなんだけど。あ、あと迷子にもならなくて良かったと思います。ええ、心底。

 こけた時に「あらあら、大丈夫?」と声掛けてくれた人とかも結構いた。基本的に親切な人が多いよねー。
 てか、「何だか昔を思い出すわねぇ。そうやってよく転んでる子がご近所さんにいたのよー。……って、あら? そういえばあなたその子に少し似てるわ」と上品に笑っていたお婆さん、ごめん、多分それオレ! まず間違いなくオレのことだそれは! 本人だ!
 お婆さんのカオにも微妙に見覚えがあった。多分よくお菓子とかくれてた近所のおばさんだ。………オレのその覚え方もどうだろう、って思うけど、それ以上にそんな覚えられ方をしてるオレがどうなんだ。三十年経ってるのに……!
 ……いや、まぁ、それはともかく。そういう思い出はちょっと今は封印しておこう。

 ぐるりとオレは向きを変えた。海を背に、そこに広がる光景を視界におさめる。
 連なる石の列 ―――― ひとつひとつに、名前の刻まれた墓石。
 その間を縫うようにして、ゆっくりと歩みを進めた。

 少しの温さを孕んだ、潮の香りのする風。
 傍らを駆け抜けて行ったそれが、オレの腕の中にある花を揺らしてゆく。白い花びらが、風に舞った。

 それを目で追った先に、あったもの。

「あ……」

 見付けた、と口の中で小さく呟いた。

 ひどくひっそりと、それはそこにあった。
 白っぽい、幾分小さめの墓石が二つ、仲良く並んでいる。刻まれた名前は、覚えのありすぎるもので。

 やっぱり……、と思って、オレは少しだけ笑う。リト兄のことだから、多分こういうの作ってるんじゃないか、って思って来てみたわけだけど。

 うん、大当たりだったね。
 刻まれた名前は、父さんと母さんのもの。


 “大崩壊”が起こったその時、父さんと母さんは、始まりのその場所にいた。
 エルグラントとローゼット山脈を国境にして隣接する国、ルッツカーナ公国。その東に位置する小さな町が、“大崩壊”が始まった場所で ―――― 体調を崩した母さんが、静養先に選んだ場所だった。

 元々母さんはそこの出身の人だった。んで、ルッツカーナ自体エルグラントとはここ数十年ずっと友好的な関係を築いてて、比較的行き来も自由だったから、その辺の事情諸々を含めてそこが静養先に選ばれた。母さんの両親はもう他界していなかったし、実家にあたる家もその頃には処分しちゃってたんだけど、全然知らない場所よりも知ってる場所の方がいいだろう、っていう父さんの配慮がそこにあったのは確かだ。

 ルッツカーナ公国の東側に位置する小さな町、カディア。
 何の前触れもなく、ぼろり、ぼろりと大陸が崩れ始めたのはルッツカーナの東側部分からで ―――― カディアもその中に含まれてた。

 ほんの一瞬で、跡形もなく消えた町 ―――― 人。
 “大崩壊”の始まった瞬間、静養してた母さんと、それを見舞ってた父さんは、始まりのその場所に、いた。

 きっとこの墓石の下には、父さんも母さんも眠っていない。遺品か何かを入れたんだろうと思う。これは、形だけのものだろう。
 それでも。

「変なカンジ、だなぁ……」

 ザラリとした石の表面を手のひらで撫でながら、他にどんなカオをしていいのかも判らずに、オレは笑った。

 二つ並んだ墓石は、真新しいものに比べて日に焼けて色褪せてた。
 三十年、経ってるんだなぁ、って思う。オレにとっては、ついこの前のことみたいなのに。

 よいしょ、とその場に膝を付く。持って来た花束を、そっと墓前に置いた。
 ごめんね、転んだりぶつかったりしたから、ちょっと既に花束くたびれてるけど。許してね。……あぁ、でも、それさえもオレらしいって、二人は笑うのかな。

 三十年。
 それだけの年月が経っているのだという。だけど、オレにとってはそんなに前のことじゃない。実感は薄い。
 それでも、あの人たちを失くしたんだっていう実感だけは、嫌ってほどに胸の中に残ってるから。

 護れなかったことが、悔しくて。失くしたことが、痛くて。
 悲しくて、怖くて、逃げ出したくて、いろんなものがぐちゃぐちゃしてた、あの時の気持ちを覚えてる。

 多分、ね。断言してもいいよ。
 あの時のオレが「ひとり」だったら、きっと迷わずに逃げ出してた。立ち向かおうなんて、思わなかった。

 でも実際は、オレはひとりじゃなかったし、護りたいものもたくさんあった。
 だから今のオレがいる。

 “大崩壊”  あの出来事で、失くしてしまったものも、たくさんある。


 ―――― 護れなかった、もの。


 膝を付いたまま、オレはコツンと額を墓石にあてた。
 そして。


「―――― ただいま」


 あの時、言えなかった言葉。
 あの時、聴けなかった言葉。

 それを、小さな声で口にした。




 あの時の気持ちを、覚えている。

 だけど、それ以上に。


 ―――― あの人たちの笑顔を、オレは覚えてる。














   * * * * * * * *

 ふと、頬に風を感じた気がして、顔を上げた。
 今、何か……何だ?
 何か ―――― いや、誰かがそこにいたような気がしたんだが……。

 気のせいか……? と首を傾げたところで、パタン、と音がした。音のした方を見れば、金髪が読んでいた本を閉じ、立ち上がろうとしているところだった。
 …………というか、手にしてる本がいつの間にか料理の本になっている。笑えるぐらいに似合わないぞ。

「どうか……したのか?」
「あぁ」
「いや、まぁ、予想の範囲内と言うかねー」

 隣でごちそうさま、と紅茶のカップを置いた黒髪が、苦笑しながら同じように立ち上がる。

「ラズが穴に落ちて身動き取れなくなってるみたいだから、迎えに行ってくるねー」
「…………は?」

 我ながら間の抜けた声が出た……と思った。
 待て。何が、何だって……?

「あいつが、穴に……って、え?」
「落ちたみたい。しかも一人で出るのも無理そうでさー、さすがにこれはやばいだろう、って思ったらしい精霊が教えに来てくれた」

 あぁ、そうか……今の気配は、精霊の…………って、それも今はどうでもいい!

「ど、どこの穴に……というか、むしろどうやって!」
「ねぇ? 不思議だよねー」

 あっはっは、と軽く笑いながら黒髪が首を傾げてみせた。

「……ちなみにその精霊の話によると、ラズが今の今までに転んだ回数は未遂を含めて二十一回だそうだ」
「多いな!?」

 何だ、その記録的数値は! その途方もなさにいっそ感心するぞ!?
 金髪の言葉に、思わずそう叫ぶ。あぁもう! 何かするだろうとは思っていたが、本当に何をやっているんだあいつは!
 僕の叫びに、黒髪はまた愉快そうに笑った。

「ねぇ? ま、たいした怪我がないみたいなのが救いだけどー」
「一応、傷薬ぐらいは持って行った方がいいだろう」
「あ、そうだね。―― と、いうワケで迎えに行って来まーす。日が暮れる前には戻るね」

 金髪の背を追うようにして、黒髪がにっこりと笑い、ひらりと手を振りながらドアの向こうに姿を消した。唖然とその後姿を見送った僕は、パタン、と閉じたドアの音に我に返る。

「…………何なんだ、結局」

 一人部屋に取り残されて、思わずそう呟いた。

 訳が判らない、というか、敢えて判りたくない。
 …………そう思った僕は、別に間違っていないと、思う。
















 忘れられないものが、ある。

 それは別に『特別』な何かじゃなくて。
 ごく普通の、ありふれた風景を切り取っただけの『日常』。

 夕焼け空。
 差し出された手。あったかい、背中。

 ―――― ほっとしたような、笑顔。


 懐かしい『記憶』は、懐かしい『誰か』の面影を伴って、そこに在る。






「…………何かすごい懐かしい夢見てた気がするー」

 ぼんやりする頭を振ってポツリとそう呟けば、呆れたような声が頭上から降って来た。

「いやいや、普通に駄目でしょー、それは」
「……まったくだ」

 …………アレ?

「フィルー、セレー?」

 ……だよな? 今の声。
 見上げた先に、予想通りの二人のカオを見付けて、もう一度あれ? と首を傾げた。
 ていうか、何だこの構図。オレがフィルやセレのカオを見上げるのはいつものことだけど、これまた随分と高い位置にカオが見えるものだなー……って、ん? んん……?

「ていうか、後頭部がイタイ……?」
「今更ソレに気付かないでよー」

 呆れた声が、また上から降って来る。
 いやいやいや、だってね? 全然状況が読めない。オレ今どこにいるの。んー? と内心で盛大に首を傾げながら地面に付いた手の下で、枯れ葉がカサリと乾いた音をたてた。

「……えっ、ていうか何だ枯れ葉? 枯れ枝っ? 何だここっ!?」
「…………今更それを訊くな」

 ……呆れきった声が、ちょっとどころでなく痛かった。
 イエ、すみません。ごめんなさい。謝るので、何が起こったのかを教えて貰えると嬉しいです。

 結論から言うと、オレは枯れ井戸に落っこちてたらしい。
 随分昔に枯れた、古い井戸。…………よく無事だったな、オレ。怪我らしい怪我っていうのが、落っこちる途中で擦り剥いたらしい右腕の擦り傷と、落ちた時にぶつけた後頭部のタンコブだけ、っていうのは運が良かったと思う。いや、頭打ったのが悪かったらしくて、ちょっとの間意識飛んでたけど、そんなのは日常茶飯事ってことで。…………そんな日常、本気でいらないとか思うけどさ。とりあえず無事を喜ぼう。うん、そうしよう。

 井戸の底に積もってた枯れ枝とか枯れ葉がクッションの役目を果たしたのが良かったんだろう、とひょいとオレを井戸から引っ張り上げてくれたフィルが言った。長年掛けて降り積もってた枯れ葉とか土とかで、井戸の底がかなり底上げされてたのも大きかったんだろう、って話なんだけど……。

「危ないから、って周囲にちゃんとロープも張られてるのに……何でラズはそこに落ちたりできるかなー?」
「……あ、それだそれ。思い出した。オレ、そのロープに躓いて転んだんだ」

 んで、転んだ先にあった井戸に落っこちたんだよなー。うん、そうだった。思い出した。
 ポン、と手を打ったオレに、フィルとセレは一瞬顔を見合わせた後、はー……っ、とこれでもかってぐらいの深~いため息を二人揃って吐いてくれた。
 息ピッタリだなー、とか暢気なことを思ってたら、

「……っ、ひたたたたっ!?」
「危険を回避するためのもので、さらに危険な目に合ってどうするかな、この子は」

 にっこり笑顔のセレに容赦ない力で頬っぺたを引き伸ばされた。

「ご、ごぇんなひゃい……っ!」

 痛い痛い! まったくもって容赦がない! セレが笑顔でちょっとお怒りモードだ!
 ちょ、マジに痛いですごめんなさい! ていうか、頬っぺたを引き伸ばされてる状態だとごめんなさいもマトモに言えません!

「まったくもう……」

 最後に呆れたように呟きながら、セレは手を離してくれた。ううう、頬っぺた絶対赤くなってる。じんじんする。涙目で頬を擦ってたら、ぽん、とタンコブを避けるようにして、頭を撫でられた。大きな手。フィルの手だ。

「お前は……転ぶなとは言わないから、もう少し迂闊なのを直せ」
「ど、努力します……」

 えぇと、まずは考え事とかしながら歩くのを止めようと思います。歩く時は歩くことに集中。でないと大変危険。…………そろそろ本気で学ぼう、オレ。手遅れになる前にさ……。

「とりあえず、日が落ちる前に帰るぞ」
「そうだねー、帰ろう。ラズ、立てる?」

 最後にくしゃりとオレの頭を撫でたフィルが立ち上がった。それに同意を返しながら、セレが服の裾をパンと払って立ち上がる。  それにうん、と頷き返しながら、オレも同じように立ち上がった。

 二人は、何も訊かない。
 何があった、とも。どうかしたのか、とも。

 訊かない。
 墓地の方向から帰って来たオレが、何を思ってたのかも。

 お墓参りに行ってくる、と言ったオレを一人で送り出してくれた時みたいに、何も訊かずに。
 ただ今は、いつもと同じように傍にいてくれる。

 ―――― 有難いなぁ、って、思った。

 こころの底から、そう思った。


 夕暮れ空。オレンジ色に染まったそれを見上げながら、オレは瞳を細めた。
 家まであと少しといった場所にあるこの広場からは、西側の空がよく見える。ちょうどその方向に、背の高い建物がないからなんだけど。

 ちなみに、行きは一時間掛かった距離ですが、帰りはやっぱりというか何というか二十分しか掛かりませんでした。原因は察して!
 ちょっと切ない気分になりながら、沈んでゆく太陽を目で追った。


 忘れられないものが、ある。
 忘れるはずのないもの。

 特別なものなんかじゃなくて、どこにでもあるような日常の記憶。

 夕暮れ空を見てると、思い出すものがあったりする。

「そういえば、さぁ……」
「んー?」
「前にもオレ、枯れ井戸に落っこちたことなかったっけ?」
「あるな。二度程」
「にっ……!?」

 すみません、それは予想外です。
 二回とか、そんな即答が返ってくるなんて思わなかったよ……!

 てことは、今回のコレで三度目かー…………って、ねぇちょっと。自分で言うのも何だけど、どうなってんのオレ。何その枯れ井戸遭遇率。ていうより、何だその落ち率。

「そのうちの一回は『学院』にいた頃でー、もう後一回はここに住んでた頃の話でしょ?」

 セレが記憶を辿るように首を傾げながら言った。
 ……あぁ、ホントに二回も落ちてんだね、オレ。『学院』時代にも落ちてんだ? …………その記憶がビミョーにないのは何でだろう? 突き詰めて考えるとちょっと怖いような気がします。ハイ。


 夕暮れ空。
 それを背後に背負い、高い位置から覗き込んできたカオが、ほっとしたように微笑んだ。

 その光景を、覚えてる。

 別に、特別な何かじゃない。
 差し出された手も、その後オレを背負ってくれたあったかい背中も。全部、日常の延長上にあったもの。

「…………あの時、お前を見付けて戻ったのは、リトゥナだぞ」
「―――― うん、覚えてるよ」

 フィルの言葉に、笑いながら頷いた。

 覚えてるよ、ちゃんと。
 あの時、オレを見付けてくれたのはリト兄だった。

 忘れるはずの、ないもの。
 懐かしい、もの。

 夕暮れ空を見てると、思い出すものがある。

 オレを見付けた時の、ほっとしたカオだとか。
 あの日、リト兄の背中から見た、オレンジ色に染まった空だとか。

 あまりにも何気ない、何ていうことはない光景。

 でもオレはそれを覚えてるし、多分この先も忘れることはないだろう。
 そんな、もの。

 あぁ、何かちょっと感傷的になってるなぁ……、と自覚しながらオレは立派な家の門をくぐった。
 いい加減慣れてきたとはいえ、やっぱちょっとこの豪華さには怯んでしまうものがある。いやいや、ここはオレの家オレの家。間違いなくオレの家。……未だに名乗れてはないけどね!
 ていうか……ん? 何か家の中がざわざわしてる……?

「あれー? なーんか、ちょっと騒がしくない?」

 オレの隣で、セレがそう言って首を傾げた。
 あ、だよな? やっぱそう思うよな? 何か知ってる? とフィルを振り返ったけど、首を緩く横に振られた。ふむ、フィルも知らない、と。

 何だろう……? と思いながらも、特に頓着せずに玄関の扉を開けたオレは、


「ただいま戻りまし ―――― ぶっ!」


 そこにいた、誰かの大きな背中にぶつかった。

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