Neva Eva

王の名を冠する者 07
 呼ばれたような、気がした。

 闇の向こう側から、『誰か』が、呼んでいるような気がした。


 ―――― セレ。


 なつかしい、こえ。
 それは、ひどく大切な『誰か』のこえ。

 …………呼ばれたような、気がした。


 繰り返し、繰り返し。
 なつかしいこえが呼ぶ、名前。

 …………名前?

 ぼんやりとする意識の中、首を傾げる。

 繰り返し呼ばれる、それは確かに『名前』。


『セレ』


 ……あぁ、そうだ。

 自分、は ――――……。


『―――― 目を覚ませ、セレナイト!』


 なつかしいこえが、叫ぶように言った。

 その瞬間、霧が、晴れた。


 目の前に、子供の姿があった。
 綺麗に澄んだ、赤い瞳が自分を見ていた。

 なつかしい、と思う。赤い瞳の子供。
 あれは……。


 何かを掴みかけた、と思った、その瞬間。



 ―――― 忌まわしい赤が、舞った。

















 どうやら、一瞬意識が飛んでいたらしい。

「―――― ラズ!」

 耳元で焦ったようなフィルの声がした。
 うっすらと瞳を開ければ、そこにはやっぱり焦った表情のフィルのカオがあって……って、珍しいなぁ。フィルがここまで焦ってますー、ってカオしてんの見るの、久しぶりー……、

「いっ、いだだだだっ!?」

 突如、左肩に走った激痛に、オレはその場でのたうった。
 い、痛っ! 冗談抜きでマジで痛っ!? ていうか呼吸止まりそうなぐらいに痛いよっ!?

「馬鹿、無理に動くな!」

 頭上から、フィルの一喝が降って来た。ううう、馬鹿はヒドイ。
 文句を言いたいとこなんだけど、あまりの痛みに動くに動けないどころか声も出ません今現在。

 左肩が熱を持ってるのが、布越しにも伝わってきた。ズキン、ズキンとまるでそこにもう一個心臓があるみたいに脈打ってる。い、痛いというよりも熱くなってきた……。
 えっと、何が……と思いながら恐る恐る左肩へと触れた指先が、ぬるりと滑る。

「……え」

 あれ……、と思って持ち上げた右手は、指先どころか手のひら全体がべったりと赤く汚れてた。

「…………うわぉ、スプラッタ」
「…………言うべきことはそれだけか」

 いやごめん、あまりの衝撃に思考が一瞬飛んだっていうか……ごめんて。そんな呆れも通り越したみたいな表情で視線を寄越すのは居た堪れないので止めてくださいごめんなさい!
 ううう、痛いのと熱いので頭の中ぐるぐるする……。

 持ち上げた手を、ぱたりと落とした。
 客観的に見て、血が足りない。視線を落としたら地面に血溜まりが出来てるし、着てるコートも血に染まって何か赤黒い。

「あぁうう……、フィルのコートに続いてオレのコートもご臨終っぽい……」
「言いたいことは本当にそれだけか」

 いや……ごめんて。何かうまく頭働いてないんだって。いつもの二倍ぐらい鈍いんだって。…………おかげで今フィルの視線が2倍痛いね!
 うん……。でも、心配してくれてるのも、ちゃんと判ってる。ごめん。結構真剣にマズイ状況だと思うよ、コレ。我が事ながら。

 ていうか、あぁもう。何だこれ。
 何でオレは……こんな怪我、したんだっけ……?


 ツン、と鼻を突く鉄錆の臭い。


 ―――― あ、れ……?


 ぐるぐるしてた思考が、不意にピタリと定まった。
 変に鮮やかな赤に、記憶が刺激される。

 あれ、ちょっと待て。オレ……。


 名前を、呼んだ。
 繰り返し、繰り返し呼んだ名前。

 呼びかけに、見開かれた瞳。


 左肩に走った激痛と ―――― 泣き出しそうに見えた、セレの表情。



 あ、と思う。

 ていうか、こんなボケてる場合かオレ……っ!

 衝動に突き動かされるようにして、ガバッ!と身を起こした。
 ―――― が。

「……っ!?」

 起こしたところで、盛大に前のめった。
 い、いや……別にね、運動神経なくて転びそうになったとかそういうのじゃなくて……、ぶっちゃけ怪我してるの一瞬完全に忘れ去ってたっていうか……っ。

 ズッキン、ズッキンと、さっきの数倍の痛みを主張してくる左肩に、もう本気で声も出ない。
 今回足りなかったのは運動神経じゃなくて、学習能力だったようです……っ! いや、もうさぁ、忘れてたんなら忘れてたで、そのまんま痛みごと忘れ去っておきたかったよね!

「無理に動くなと言っただろう!」

 お前は馬鹿か! というフィルの言葉が、ぐっさりと心に突き刺さる。うわ、その飾らない言葉ってば直球ど真ん中ストレートだよ。

 あぁ、でも、ホントにオレ馬鹿だ。
 もういろんな意味で馬鹿だ。大馬鹿だ。

 オレは今、とんでもないヘマをやらかした。

 自己嫌悪でも人は死ねそうになるものなんだと再自覚。
 あーもー……信じらんない。マジかオレぇ ―――― みたいな。そんなカンジのアレだ。確か目覚めてからこんなことを思うのも二度目だよ。こんな経験、本気でいらないと思う。
 あぁもう……ホントに、さいあくだ。

「……フィル」

 声のトーンを落として名前を呼んだオレに、フィルの動きが一瞬止まったのが判った。顔を上げれば、傍に膝を付いたフィルと目が合う。

「フィル ―――― セレは?」

 問えば、フィルの眉が寄った。……あぁ、何だ。何かお前、泣きそうなカオしてるぞ。多分、オレも似たような表情してるんじゃないかと思うけど。

「セレ、は?」

 重ねて問えば、フィルは唇を引き結んで俯いた。僅かな沈黙が落ちる。
 そして。

「……闇に、呑まれた」

 呟くような答えがあった。
 一瞬何を言われたか理解できなくて、え、と声が漏れる。オレの視線を受け止めて、フィルは何か痛いのを堪えるような表情になった。

「あいつは、闇に呑まれた。―――― あそこに、いる」

 言いながらフィルは、身体を捻るようにして背後を振り返った。

 その瞬間、冷たい風が頬を撫でていく感触がした。今まで、フィルの身体に遮られてて、オレまで届いていなかったもの。
 理解して、オレはもう一度、え、と呟いた。

 闇に呑まれた、とフィルが言った言葉。
 あそこにいる、と振り返った先。冷たい風の吹き付ける場所。

 フィルの影に隠れて見えなかったその場所に、闇色の嵐が巻き起こっていた。

 吹き付ける風は冷たくて、凍えるみたいだった。
 凍て付くような温度。渦巻く風は、闇の色をしていた。

 セレの髪や瞳と同じ色。
 オレが好きな色で ―――― それはセレが扱う力と同じものだった。

 闇色の嵐。中心部は夜の闇よりさらに深く、そこに何があるのかを見通すこともできない。
 よろめきながらも、オレは何とか立ち上がった。

「……フィル」

 目の前にある闇色を見据えたまま、問い掛ける。

「セレは……あそこ?」

 渦巻く風の中心部、そこに視線をやって、呟くように訊いた。少しだけ首を動かして振り返れば、視線の先でフィルはぎゅっと眉を寄せてこっちを見てた。…………うん、その表情だけで十分、かな。

「わかった」

 肩越しに振り返って少しだけ笑ってみせると、フィルの眉がますます寄った。あぁもう、お前がそんなカオしなくても大丈夫だって。いや、まぁ……、今のオレが大丈夫って言っても、説得力ってモノがないかもだけどね?

「ちょっと、行って来る」

 それでも、大丈夫だよって、そう思いながら告げた。

「ラズ!」
「待ってると思うから……行って来る」

 そうしなきゃならない、とかじゃなくて、ただオレがそうしたいから。
 迎えに、行って来るね。

 フィルはここで待ってて、と続けて言えば、フィルが何か言いたげに口を開きかけて、でも結局何も言わずにそのまま口を閉ざした。

「……っ」

 ……うん、ごめんな? お前の気持ちも判るけど、でも、お前をあそこまで連れていくのは無理だ。
 あそこは ―――― あの闇色の嵐は、純粋に闇の力が強すぎるから。

 お前は光の精霊で、セレは闇の精霊で。
 普段はそんなの気にもしないんけどさ、あそこまで強い闇の力の前だと、お前の光の力はそれに反発してしまう。それは、やっぱちょっと困るしね。だから、ここで待っててくれると嬉しい。

 大丈夫。
 絶対に、帰ってくるから。

 行って来る、と繰り返し言って、微笑った。

「すぐに戻るよ」

 絶対に、と思う。


 絶対……、セレを連れて帰って来るから。









   * * * * * * * *

 闇色の嵐の規模は、そう大きくはなかった。
 だけど、そこにあるのは、ただただ純粋な闇。朝の光も、その闇には届かない。

 今更だけど、ものすっごいシュールな光景だよなぁ、これ……。
 何とはなし、そんな暢気なことを思いながら周囲を見回せば、嵐から少し離れた場所に盗賊団の面々らしき人たちが、折り重なるようにして倒れてるのが見えた。

 …………えーっと……、あれって、フィルがのしちゃった……のかな……?
 多分間違いなくそうなんだろうなー……とか思える辺りがちょっとどうかと思わなくもない。あの人数相手にして、完全勝利を収めてるのはホントにすごいよ……。
 でも、うん。ああやって早々に気絶してるが故に、セレの嵐にも巻き込まれず無事に済んでるような気がするよね。ある意味怪我の功名。運が良いのか悪いのかはビミョーなとこだと思うけど。
 まぁ、でも無事なら、あの人たちは気にしなくてもいいとして、と。

 後は ――……、と視線を巡らせた先、腰を抜かしたように地面にペタリと座り込んでるインテリメガネの姿を発見した。
 あ、見つけた。

 ゆっくりと方向転換をして、足をそっちへと向ける。
 血が足りてないのか頭がグラグラして、足元がいつも以上に覚束ない。だけど、今転ぶのはいつも以上に致命的だと、誰かに言われるまでもなくそう理解できてしまうのがまた何とも言えない。…………うん。今この状態で転ぶとさ、それって文字通り致命傷だと思うんだ。
 えぇと……気を付けて歩きたいと思います。……転ばないようにって、難しいね。

 ゆっくりとインテリメガネに近付いて、そこで一度大きく息を吐いた。

「…………それ、返してくれる?」

 地面に直に座り込んで、呆然と目の前にある闇を見上げていたインテリメガネの背中に声を掛ける。
 反応はない。だらりと下げた腕が、小刻みに震えているのが見えた。

「セレ……ナイ、ト……?」

 闇色の嵐からのろのろと視線を外して、インテリメガネが己の手を見やった。ゆるく握り締めた拳の中にあるのは、セレの石で。
 その様子を見ながら、オレはゆっくりと口を開いた。

「それ、軽々しく呼んでいい名前じゃないんだけどね」

 だってそれは、紛れもなく真名だ。
 精霊の真名は、そんな簡単に口にしていいものじゃない。

 ……いや、その真名をウカツにも呼んじゃったのはオレだけどさ。しかも大声で。

 …………。だ、だって必死だったんだもん。優先順位すんごい高かったんだもん。セレに呼びかけようと必死になってたら、インテリメガネが“晶石”持ってるんだっていう状況とかがちょっと頭から飛んで真名呼んじゃった、とか、駄目ですか。……駄目ですね、はい。
 ごめんなさい! でも反省するのは後にします! 全部後!

「セレ、ナ……っ!」
「いや、だから……」

 呼んじゃ駄目だってば。
 再び突っ込んだオレの言葉なんて耳に入ってない様子で、インテリメガネは引き攣った表情で自分の手にした“晶石”を見てた。

 小さな、ブラックオパールのピアス。
 それは ――――……。

「っ、“闇を統べる王”……!?」
「……まぁ、その呼び方が一般的かな」

 初めてセレに出会った時、既にセレはそう呼ばれてた。
 強大な力を持った精霊。フィルともども、二人の名は特に魔法使いの間では有名だった。

 学院に入ったばっかの頃にさぁ……、使い魔を出してみろ、って言われて ―――― 素直に出して、大騒ぎになったことがあるんだよね。いやもう、上を下への大騒ぎ。
 さすがにオレも、あれで自分がどれだけすごい精霊を使い魔にしたのかを自覚した。使い魔を出してみろ、って言った先生とか、何か今にも死にそうなカオしてたし。

 闇を統べる王 ―――― セレナイト。
 それはきっと、今では魔法使いに限らず誰もが知ってる名前。

「馬鹿、な……っ」

 喘ぐようにそう口にした、インテリメガネの顔色はもう真っ青だった。
 ようやく自覚したのかな? 自分が手にしていた石、それが王の石だったことに。

 小刻みに震えるインテリメガネの手のひらから、ポロリと“晶石”が転がり落ちた。ころりとそれは地面に転がって、オレの足元で止まる。
 あぁ、そういえば、ハクレン爺が言ってたっけ……?

 ―――― あれは、あの“晶石”が王の石だとは思うておらんよ。儂が黙っておったというのもあるが、己の手にしておる石が闇の王のものだと判ればいっぺんに臆すぐらいの小物ぶりじゃからの。

 それを聞いた時は、ホント遠慮なく扱き下ろすもんだ、とか思ったけど。
 いや、さすがに師匠。弟子の性格をよく把握していらっしゃる。ホントに言ってることそのまんまなカンジですよちょっと。

 インテリメガネはさ、強い力を求めていたのも事実なんだろうけど、実際に自分が手にしていたものが、想像よりもずっと大きな力だったことに気付いて怖くなっちゃったんだね。

 大きすぎる力は、怖い。―――― それは確かに、オレもそう思う。
 だけど。

 強い力が欲しかったとか。
 その力を使って何かしようとしてた、とか。
 そんなことを思って、セレと一緒にいたわけじゃない。

 そんなことのために、今、こんなに必死になってるわけでもない。

「―――― 返して貰うね」

 オレの足元、地面へコロリと転がった石を拾い上げて、オレは言う。
 それを止める声は、なかった。













   * * * * * * * *

 本当の闇というものを見たことがある人は、実は結構少ないんじゃないかと思う。
 夜の闇は、案外いろんなところに光が瞬いてる。人がいる家には明かりが灯るし、空に月が出ていれば、それだけで足元に影が出来るほどに明るい。無数に瞬く星の光だってある。

 暗闇だと思う場所でも、その闇に目が慣れてしまえば朧げながらも物の輪郭は掴める。―――― そこが、絶対の暗闇でさえなければ。
 ほんの僅かな光さえも届かない真の暗闇では、いつまでたっても目が慣れるということは絶対になくて、瞳を開いていても閉じていても、その視界は大差ない。


 目の前に翳した、自分の手さえも見えない、本当の闇。


 …………オレがこれを見るのは、実のところ二度目だったりする。







 いやホント……今一瞬死ぬかと思ったよ。
 冗談抜きでお花畑が見えたような気がね……うん。何か絶対にしちゃいけない体験を、しっかりばっちりするとこだったよ! …………シャレにならないな!

 セレがいるのはあの闇色の嵐の中、っていうのだけははっきりと判ってたから、何の躊躇も迷いもなくそこに突進させて貰ったわけですが。
 嵐、ってことは、当然風も強い、ってことで……突進したその瞬間に、危うく吹き飛ばされかけたりなんかしたわけだ。
 そこで外へと弾き出されなかったのは、単純にもう運の問題だと思う。吹き飛ばされかけた、ってか、巻き込まれた先が嵐の中心部の方だったが故に、とりあえず現在は風の影響も受けず無事でいます。

 いやホントに……身体が一瞬宙に浮いて、ぺいって投げ出されて ―――― 衝撃でウッカリ死に掛けた。怪我したとこにモロに響いて意識が飛びそうになった。ホントに痛い時って、人間声も出ないもんだね……。身をもって知った。何かオレ、そういういらない知識ばっか増えてってる気がする。
 とりあえず、死ななくて良かったと思います。ええ、心底。

 嵐の中心部は、不思議なぐらい静かだった。
 渦巻く風の音も、何も聴こえない。自分の乱れた呼吸音だけが耳に届く。外側で吹き荒れているだろう風の影響も、ここにはまったくない。

 ただ広がる、真の闇。

 人は、本能的に闇を恐れる ―――― と、誰かの言った言葉を思い出す。

 それは、多分ホントのことだろう。まったく視界も利かない闇の中は、周囲に何がいてもそれとは感知できない。それどころか、時に己の存在すらも曖昧になる。
 だから、それを恐怖する人の気持ちは、十分に理解できるけど。

 それでもオレは、この闇は怖くないと思う。

 放り出された格好から、何とか上半身だけを起こして。そこでまた左肩に激痛が走って、倒れ伏しそうになったのを何とか堪えて。
 でもさすがにもっかい立ち上がるのはどうも無理そうだったから、ため息を吐いてそのままそこに座り込んだ。
 てか、この闇の中で歩き回ったりしたら、オレもう転びたい放題だろうな。3歩進む度に1回転ぶ、ぐらいの。…………動くの止めとこう。そうしよう。
 肩の力を抜いて、もう一度ため息を吐いた。ずっと握ってた手のひらを、ゆっくりと開く。
 この中に入る前に拾い上げた、ブラックオパールのピアス。見えないけど、指先の感覚だけでそれが確かにそこにあることを確認して、もう一度ぎゅっと握り締めた。

 結構……ていうか、かなり。この状況ってば、自分が情けなくなってくるよね。
 自己嫌悪、っていうか何ていうか、反省したいこといっぱいだし、頭抱えて唸りたい衝動とか襲ってくる。

 だけど、そんなオレの葛藤なんか、全部後回しだ。
 そういうのは後でいくらでも出来る。

 今、優先しなきゃいけないことは ――――……。


「―――― セレ」


 闇の中、その名前を呼んだ。
 周囲なんて、何も見えない。瞳を開いているのか、それとも閉じているのか、それすらも判らなくなるぐらいの深い闇。

 だけど、この闇は怖くはない。
 何も見えなくても、光がこの場所に届かなくても。
 オレを包み込む、この闇はどこか優しかった。

 この闇は、セレが作り出したもの。
 だから、大丈夫だと思える。

 絶対に大丈夫だと、自信を持って言える。

「セレ」

 闇の先へと、呼び掛ける。
 声はきっと届いてるんだって、信じることにしよう。

「ごめん、遅くなった」

 随分と、待たせた。
 ごめんな。ホントはもっと早くに迎えに来なきゃならなかったのに。
 もっと早くに来れてたら、こんなことにはならなかったかもしれない。それは結果論でしかなくて、後悔してももう遅いけど。

 周囲を取り巻く闇が、僅かに変化した。
 目に見える変化じゃない。だけど、そう感じた。―――― それだけで、十分だった。

 この闇の中、セレがいる。
 そのことを確信して、オレはゆっくりと手を伸ばした。伸ばした手が、闇を掴む。

 ……そこに、いるね?

 闇に呑まれた、と言ったフィルの言葉。あの瞬間のセレの絶望は、どれ程のものだったんだろう。
 想像することは簡単だけど、きっとそれは正確じゃない。セレの絶望は、セレにしか判らない。

 ごめんな。
 謝って、済むことじゃないけど。

 たくさん、傷付けた。
 ききたくもない命令にも従わなきゃならなかっただろうし、―――― 何より、攻撃させてしまった。
 オレを傷付けるものを、お前は何より厭っていたのに。

 …………ごめんな。
 お前の怒りも嘆きも、判らないわけじゃない。

 だけど結局オレは、自分の望みを優先させようとしてる。

「迎えに、来たんだ。―――― 一緒に帰ろう?」

 ねぇ、一緒に帰ろう?
 周囲を包み込むこの闇は、優しいけど、寂しいよ。

 一緒にいたいと思う、これがオレのワガママでしかなくても。
 お前の望むこととは、違っても。


 それでもオレは、一緒にいたいと思うから。

 お前が絶望に囚われて闇に呑まれたとしても、オレはそこからお前を取り戻すよ。


 絶対に ―――― ましてやこんなことで、失くしたくはないんだ。


「セレ ―――― セレナイト」


 この声が、届くのなら。

 ちゃんとここに帰っておいで。
 お前を縛るものは、もう何もない。


 暗闇の中、伸ばした手が闇を掴んだ。


 ―――― それは、確かな感触を持っていて。



 こみ上げてくる嬉しさに微笑って、オレはその感触を腕の中に抱き締めた。


















 気が付けば、いつの間にか闇が晴れてた。
 ホントにいつの間にか、周囲を取り巻いてた闇はきれいさっぱりなくなってた。光が目に刺さるようで、痛い。

 しばらくして、ようやく光に目が慣れた頃。
 ゆっくりと瞳を開けば、頭上には青空が広がってて。


 ―――― オレの腕の中には、セレがいた。

 セレが、いた。


 それを確認して、オレは微笑う。

「セレ」

 呼びかけに、セレの肩が震えた。ビクッ……って、まるで怯えるみたいに。
 ……あぁ、もう。

 腕の中、セレが身じろぐ。何とか離れようとしてる気配を感じ取って、オレは逆に腕にぎゅっと力を込めた。
 左肩がちょっと痛んだけど、そんなこと構ってられない。逃がすもんか、って、そういう気分だった。

「……ラズ」

 オレが腕に力を込めたのと同時に動きを止めたセレが、やがて小さな声でオレの名前を呼んだ。

「んー?」
「ラズ、離して」

 小さな、小さな声。ほんの僅か、震えてるその声が、ちょっと悲しい。

 絶対に今、泣きそうなカオしてるんだろうなぁ、って思った。この体勢じゃ、見えないけど。
 この手を離したら駄目だって、直感的に思う。
 だから。

「嫌だ」

 短く、拒否の言葉を口にした。
 嫌だよ。絶対に離してなんかやらない。

「……っ」

 オレの答えに、小さく息を呑んだ気配がした。
 何かを、必死に堪えてるような。

 ごめんな、と思う。
 セレが何を気に病んでいるのかも、判る。腕の中、抱き締めてセレの視界を塞いでも、さすがに血の臭いまでは誤魔化せない。

 ごめんな。
 でも、ホントにこんなのは何でもないんだよ。
 お前がここに戻って来てくれたこと、その喜びに比べたら、何でもない。

 離せと、繰り返し言うセレの言葉を無視して、腕の中懐かしい感触を抱き締める。
 今度は肩だけじゃなくて、セレの全身が震えた。……あぁもう。

 どうせまだ、泣きそうなカオしてるんだろう。―――― そんなカオ、似合いもしないのに。

 そんなのは見たくもなかったから、セレの肩口に顔を埋めた。……硬直したんだけど。
 あああ、もう!
 余計なこと考えるな、と思う。絶対に、お前は悪くない。ヘマをしたのはむしろオレの方だ。だから、お前が罪悪感なんて持つ必要はこれっぽっちもない。

 泣きそうにオレの名前を呼ぶ、そんなお前のカオが見たかったわけじゃない。
 やっと、会えたんだからさ。どうせなら……、

「笑え」

 笑ったカオが、見たいよ。

 ぎゅっと腕に、力を込める。
 しばらくの沈黙があって。今度は腕の中、耳をくすぐるような笑みの気配が、した。

「―――― 命令形なの?」
「うん。ここぞとばかりに」

 問い掛ける声に、きっぱりと返す。
 普段あんまり言うことないからたまにはね、って付け加えたら、笑みの気配が濃くなった。

 そして。

「…………敵わないなぁ……」

 呟いた声は、やっぱりちょっと震えてたけど。

 そこに怯えや後ろめたさみたいな響きは感じ取れなかったから、オレはただ微笑って更に腕に力を込めた。

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