泣きそうだ、と思った。
ちょっと今、割と本気で泣きそう。少しでも気を抜くと泣きそう。
別にね。
……別にさ、泣くことがカッコ悪いことだなんて思わない。泣くのが必要な時ってのも、確かにあると思う。
だけど、今はそうじゃない。
泣いてる場合じゃない、っていうのも、判るから。
もうちょっと、頑張ろうと思います。
全部終わって、それでもまだ泣きたい気分だったら、その時は大泣きしてやる。
普段、泣こっかな、と思ったことはそれこそ山ほどある。
ええそれはもう山ほど。数えるのも馬鹿馬鹿しくなるぐらいにありますとも!
階段から落ちたり池に落ちたり壁にぶつかったり ―――― その辺で転んだり。いつものこととは言え、痛いものは痛いし、その度に泣きは入る。
あ、でも冬に池に落ちた時には結構泣くどころでもなかったな!そういう段階全部すっ飛ばして、リアルにお花畑が見えたカンジー……って、尚悪いよ。
…………いや、まぁ、うん。ホントにその辺は今更です。その事実にも泣けるけどね。
顔を上げたら、無機質な瞳と目が合った。
感情は、そこには浮かんでいない。静かな……夜の海にも似た色彩。吸い込まれそうな静けさが、そこにはあった。
いつもはもっと、賑やかな感情が浮かんでる黒い瞳。たくさんの感情がごちゃごちゃととりとめもなく浮かんでて、逆にそこにある感情を読み取らせ難かった。
それを知ってる。
知っているから ―――― 見返してくる無機質な瞳に泣きたくなるんだ。
「……あぁ、もう」
ぶん、と頭を勢いよくひとつ振る。勢いがつきすぎて、ちょっとよろけた。けど何とかそこに踏み止まって、ゆっくり瞳を閉じてすぐに開いた。
気持ちを切り替えろ、と自分に言い聞かせる。
「……っ、舐めた真似を……!」
恐る恐るといったように顔を上げ、そこにもう焔がないことと、目の前自分を庇うように翳されたセレの手に、インテリメガネはおおよその状況を察したらしい。声を荒げて立ち上がった。その頬が怒りに赤く染まっている。
「おい、命令だ! あいつをぶちのめせっ!」
びしぃっ! とオレを指差しながら、インテリメガネは言った。……何でこういう人たちって、やたらと他人を指差すかな、とオレはそんなどうでもいいことを思った。
「ただし、殺すなよ!? お前の真名をあいつには吐かせるんだからな!」
苛々と叩き付けるような声で言ったインテリメガネに、その声を向けられたセレは無表情のまま少しだけ首を傾けた。
そして。
「……仰せのままに」
「―――― あああ、もうっ!」
反射的に声を上げる。
セレの答える声を掻き消すみたいに、叫び声にも似た大声を上げた。
あああ、もう! ホントにもう!
だって、そんな声を聴きたかったワケじゃない。
そんな平坦に、何の感情もこもってない声で ―――― そんな言葉を。
他人の手に、“晶石”が渡る。
それがどういうことか、知ってる。……オレは、ちゃんと判ってたはずなのに。
ごめん。……ごめん、な。セレ。
お前は、多分今自分がどんな状態か判ってないだろうけど。お前の意識がちゃんとここにあったら、きっと怒り狂ってるって、断言できる。
絶対、お前は怒るよ。
オレを傷付けろ、とそんな命令を下したインテリメガネに。
そして。
それに、頷いてしまった自分に。
使い魔は、“晶石”を持ってる人間の命令には逆らえない。それはもう、本能に近い部分の話だ。
逆らえない、って判ってても、そこに拒否権なんてなくても。
頷いてしまった事実、それが何よりセレを傷付ける。セレは、オレを傷付けるものを、何より嫌ってたから。
フィルにもそういうとこがあるんだけどさ、セレの方がその傾向がホント顕著で。
いや昔ね、理不尽にも精霊に殺されそうになったこととかあるんだけど、あの時は本気で酷かったよ。笑顔のままお怒りで…………すんごい怖かった記憶しか残ってない。アレ絶対相手側のトラウマになってる。
「普通なら過保護のひと言で切り捨てるとこなんだけどね。君の場合に限り、それぐらいでちょうどいいっていうか、それでも足りないっていうか」と、オレとフィルやセレとの関係を指して、友人にそんなステキすぎる断言を貰ったことがあります学院時代。しかも、その場にいた全員にうんうんと深く頷かれちゃったというオマケ付きです。…………何でこういう思い出ばっか残ってるかな、オレ。
オレを、傷付けるもの。それを、何よりお前は嫌ってたから。
その『嫌ってるもの』に自分がなっちゃったとしたら、絶対に怒るよね。
多分、何よりも自分に。
そんで、怒ったその分、セレも傷付く。
そんなのは、見たくない。
見たくないから、絶対にそれは避けなきゃならない。
「―――― セレ」
さっきは呼べなかった名前を、今度はきちんと口にする。
また、セレの肩がピクリと揺れた。
オレを見るその瞳に感情がなくても。
インテリメガネの言葉に従って、その手を振り上げても。
声は、ちゃんと届いてる。
その事実があるから、大丈夫だって思えた。
「やれ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るインテリメガネの声に応えるように、セレが動いた。左手に力が集まっているのを感じたオレは、咄嗟に呪文スペルを口にする。
「っ、―――― 光響<ヒビキ>!」
本当は長い呪文<スペル>の、ホントに最後だけ。発動に必要な最低限の呪を口にするのがやっとだった。
相手の魔法を無効化する呪文<スペル>は、きちんとその役割を果たしてくれたようだ。セレの手に集まってた力は、そこから放たれた直後にぱぁっ……と弾けるようにして霧散した。
散った力は、朝の空気にはちょっと不似合いな闇の色をしてた。
セレ自身が持ってる、闇の力。
……って、あの、今の何気なく危なかったよ!? 結構威力お高めだったっていうか、人によっては即死でもおかしくないような攻撃だったよ!?
オレはまだ耐性あるから大丈夫だけどさ、それこそ魔法になんの耐性もない一般の人に向けたら、って…………か、考えたくない考えたくない。ま、間に合って良かった……!
ぶつけようとした魔法が、効果を発揮する前に消え失せたことに、セレが初めて表情を動かした。驚いたみたいなカオで、こっちを見てる。ちょっと不思議そうな表情。
真っ直ぐにオレを見るその瞳に笑い返せば、セレの瞳が揺れた。
「セレ」
名前を呼べば、さっきよりも大きく肩が揺れる。
大丈夫。
声は、届いてる。
大丈夫、ともう一回自分に言い聞かせるみたいに、口の中で呟いた。
今更な話なんだけど、オレは純粋な戦闘というものが、実のところものすごく苦手で。
だって、運動能力とか反射神経とか一瞬の判断力とか…………何かオレになさそうなモノばっかり要求されるから。魔法はともかく、直接攻撃とかされたらホントに瞬殺モノだと思うよ、オレ。自分で言うけど。
だけど。
だけど、さ。
譲れないものがあるから、どんなに不利に思えても、絶対に引かないって決めた。
取り戻す、って決めたんだ。
見上げたセレの瞳は、また無機質な色彩に戻ってた。
でも。
「セレ」
名前を呼べば、また瞳が揺れる。
セレの意識が、そこにある。
セレの手に、再び力が集まったのを感じた。
闇の力。朝の光の中ではその力を引き出すのも難しいだろうに、けれどセレは何の苦もないようにそれを操ってる。
それは、王の名に恥じない、強い力。
だけど……絶対にセレが、こんなことのために使おうとはしない力。人を傷付けるためにあるものじゃないと思うからね、って言ってた。それを知ってる。
知っているから、止めなきゃ、と思った。
傷付ける目的を持って集められた力に、唇を噛み締めて間に合うか? と自問自答する。
「セレ!」
名前を呼ぶ。
オレにとって大切な名前を、届けと願いを込めて口にした。
間に合う? ―――― この声は、ちゃんとお前に届いてる……?
「―――― 目を覚ませ、セレナイト!」
視線の先、ビクリと大きく肩を揺らしたセレが、瞳を大きく見開いた。
そこにあったのは、無機質な瞳なんかじゃなくて。
確かに、『セレ』がそこにいた。
それは、オレの知ってるセレの瞳だった。
声が、確かに届いたことを知って、オレは笑う。
だけど。
呪文<スペル>を紡ぐ代わりに口にした名前は ―――― ちょっとだけ遅かったみたいだ。
ドスッ……! と鈍い音が、した。
左肩に、激痛。
「っ!?」
堪え切れずにオレはその場に転がった。というか、気が付けば顔の下に地面があった。
な、に……? 何ていうか、半端なく痛いんですけど。
いつもいつも転んでばっかで生傷の絶えないオレだけど、これはちょっとそんなのとは比べものにならない。
痛い痛い痛い。意識のほとんどが、その単語で埋め尽くされてる。何が起こったのかよく判んないのと、容赦なく襲ってくる痛みとのダブルパンチにオレは顔を顰めた。いや……ホントこれ、シャレになってないっていうか……、
「……っ、ラズ!」
慌てたようにオレを呼ぶ、フィルの声がした。
あれ、今オレどんな状態になってんの?とそんなことを思ったオレの視界に入り込んできたのは、じわじわと滲む赤色。
地面へと流れるその色彩は、変に鮮やかで。
……あれ、これって……。
かろうじて首を少しだけ動かして、周囲を見る。
視線を上げた先、セレはさっきよりも更に驚いたみたいな表情で、瞳を見開いてた。
オレにはそれが、泣き出す一歩手前の表情に、見えた。
あぁ……、と思う。
あぁ、何かオレ…………ものすっごい、ヘマしたかも……?